目の前には霧がかかっていた。
知らない街の、知らない石畳の道路。 青とも、灰色ともつかない色が、どこまでも続いている。 見上げても、真っ黒な空だけで、あたりには明かりもない。
だというのに、目の前の道だけが、やけにはっきりと見えていた。
海の中を歩くように、一歩、一歩と、その道を進んで行く。 何故だか分からないが、その先に、涼がいると、緋翔は思った。
歩くたびにふわりと、霧がその足にまとわりつく。
前に、早く、涼に。
頭の中で、言いしれない不安が流れ、見えない何かに押されるように、緋翔はその道をひたすらに歩いて行った。
変わらない景色。 色も、明かりも、空もない。
赤も、ない。
は、と吐く息が、荒くなる。 目の前には何も見えない。 でも、確かに、その先から、緑茶の香りがしていて。
追いかけなければ、どこかへと消えてしまいそうな気がして。
止まりそうになる足を伸ばして、手を伸ばして。
息を大きく吸い込んだ。
「緋翔?」
バチ。
と、景色が落とされるように、緋翔は目を覚ました。 目の前には、見知った天井と、どこか不安そうにのぞき込む、切れ長の目。 艶やかなこげ茶色の髪が、その下がった眉毛の横をさらりと落ちていく。
緋翔はその顔を見て、何故か、目の奥が熱くなるのを感じた。
ぽろ、と落ちそうになる涙をぐっとこらえると、そのまま、涼の首に腕を回す。
そのままぎゅっと抱きしめれば、涼は優しく、緋翔の頭を撫でた。
「どうしたの? 怖い夢でも、見た?」
「ん。 涼が」
「俺が?」
「涼が、ね。 見つからない、夢……」
そう呟く緋翔の声は、普段よりも少し掠れていた。 回された腕は、涼の身体を確かめる様に背中を撫でていく。 背骨、肋骨、肩。 全て、ここにあるかを確かめると、緋翔は深く、息を吐きだした。
「緋翔。 俺は、いなくなったりしないよ」
涼がそう言えば、ようやく緋翔はその腕を放し、コクリと頷いた。 それでも涼は、緋翔の身体を抱きしめたまま、安心させるように、そのピンク色の髪にキスを落としていく。
大丈夫。 ここにいる。
音にはしなくても、その唇が柔らかく触れるたびに、確かに緋翔には届いていた。 何度目かのキスが、そっと唇に降りて。 そっと視線を合わせて、二人はくふくふと笑う。
柔らかな時間を、ピピピ、という電子音が終わりを告げる。
「あ、もう、出る時間?」
「うん。 ごめんね。 今日の講義は外せないから……本当は、一緒に居たいんだけど」
「ごめん、朝ごはん……一緒に食べれなかった」
「ふふ、いいよ。 今日は早めに帰ってくるからさ。 夕飯、一緒に餃子作ろうか」
「餃子!! いいね!! 材料、オレ、買ってくる」
緋翔はそう言うと、パッと、その顔に笑顔を咲かせる。 先程まで見えていた緋翔の不安が消えている事を確認して、涼はその眼をゆるやかに細めた。
ベッドの上。 まだふわふわしたままのその髪に、もう一度、キスを一つ。
「じゃあ、行ってくるね。 また、帰るときに、連絡する」
「うん。 行ってらっしゃい!」
そうして見送る背中に、僅かに霧がかかった気がした。 それでも、緋翔は気が付かないふりをした。 するしか、なかった。
その日の夜。 緋翔は一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
紺色の空には点々と星が輝き、所々に薄い雲が浮かんでいる。 月は、緋翔の座っている場所からは見えなかった。 遠くに見えるビルの窓からは、まだいくつか明かりが灯っているが、その殆どが暗い。 マンションの前を、一台の車が通り過ぎれば、どこかの犬が、それに向かって吠えていた。
その声も、すぐさま静まり、部屋には時計の音だけが響いている。
壁のそれは、すでに九時を回り、四の数字を長い針が通り過ぎた。
緋翔は、そっと、テーブルの上のスマホに指をかけた。
いつものメッセージアプリ。 それをタップして、たった一つしかないチャットルームを開く。 最後のメッセージは、【何時に帰ってくる?】という、自分の送ったもの。
その時間は今から数時間も前で。 その横には、いつもならすぐ付く既読の文字もない。 涼から届いていた最新のメッセージは、昼頃に来た【明日の夜】。
それが何を意味するのか。 たったそれだけでも、緋翔は理解していた。 それは、いつの間にかできていた、二人にしかわからない、秘密の言葉のようだった。 その言葉を見るだけで、緋翔の息は嫌でも上がる。 ほう、とはいた息が熱くなり、頭の中に赤と鉄が広がって。 ゾクリとした感覚が背筋をあがっていく。
でも、今は。
「遅いな……」
コトリ。と、スマホを投げ出し、緋翔はテーブルにつっぷした。
普段なら、こんな遅くなることはない。 そもそも、帰宅が遅れる事を、報告しないことだって、今までにも無かった。
ましてや、緋翔からのメッセージに既読が付かないことなど、一度も無くて。
嫌な予感だけが、緋翔の身体を静かに冷やしていく。
緋翔はそれをごまかすように、テーブルの上にある、ラップのかかった銀色のボウルをコツ、と指先でつついた。 キャベツも、肉も、調味料も、全て混ぜ終えた、餃子のタネ。 皮は袋のまま、二つ重ねて、小さな水の入ったお皿と、二つのスプーン。 それらが全て、ずっと黙ったまま、緋翔をじっと見つめているようだった。
まっさらな、何も乗せられていない丸い皿が、やけに大きく見えて。 緋翔は何度目かのため息をつく。
「先に、作っておいたほうが、いいかな……」
ぽつり。 そう呟いて、緋翔はまた、ボウルの端をつついた。
どこにいるのか。 何をしているのか。 何も、わからない。
帰ってくる。
そう信じるしかなくて。
「一緒に作ろう」と、そう言った涼の言葉を、蔑ろにはできなくて。
コツ……と、もう一度つつけば、中に入れていたスプーンが、僅かに傾いた。
その時だった。
玄関の前。 誰かが、荷物を動かす音がした。
それは金属の音で。 確かに、いつもの、涼が持っている鍵の音だった。
しばらくして、ガチャリと、扉の開く音がして。
緋翔は思わず立ち上がると、足早に玄関へと向かった。
「涼!」
ガバッと、勢いよくその体に抱き着く。
淡いベージュのコート。 濃い茶色のズボン。 その全てが朝出かけていった涼と同じなのに、ニオイだけが、違った。
緑茶。 鉄。 それに、消毒の匂い。
その違和感に、緋翔が勢いよく顔を上げる。
見上げて見れば、涼は、何故か困ったように眉毛を下げ、その唇を歪ませていた。
その顔は、緋翔が今まで一度も見たこともない、貼りつけられた、“普通の”笑顔だった。