いつものドラッグストアは、その日も変わらずまばらに人が出入りしていた。 緑のラインに白い文字の自動ドアを過ぎて、緋翔はヘアカラーの売り場に向かう。
日焼け止めと、保湿剤を左手に。 期間限定のシャンプーは、今は金木犀だった。 ふわり、と甘い香りが心地よい。
緋翔は何となく足を止めて、そのシャンプーを手に取った。 甘くてどこか懐かしいその香りが広がる。
そういえば近くの公園にも咲いていたな、と緋翔は記憶を巡らせた。
涼の大学までの道の途中、その小さな花が路面にいくつも散らばっていた。 その香りは数メートル前から香り、過ぎた後も尾をひくように体に残る。 それを、鼻を小さく揺らしながら嗅ぐのが、緋翔の癖だった。
その公園を過ぎると、前から香る緑茶の香り。 それが、緋翔には嬉しくてたまらない。
「(買ってみようかな)」
値札を見てみたが、持ち合わせのお金は僅かに足りそうになかった。 うん、と少しだけ悩んで、緋翔はそれを棚に戻す。
また、涼と来た時に買えばいいか、と、緋翔は売り場を後にした。 週末には、またどうせ買い出しに出る。 それなら、今ではなくても構わない。 それに、どうせ買うなら一緒のほうがいいと、緋翔はひそかに笑った。
カラー剤は入り口を真直ぐ進んで、右奥に並んでいる。 緋翔はそこに立って、なんとなくパッケージを見回した。 長い髪の女性が、色とりどりのカラーの髪をたなびかせている。 定番カラーのブラウンは色の種類が豊富だ。 ブラウンにライトブラウン、ピンクブラウンにコーヒーブラウンなんてものもあった。
メンズのカラー剤はいたってシンプルで少なく、売り場の一部に数品並んでいる。 緋翔はそのうちの、シルバーアッシュと書かれた箱を手に取った。
「(この色、ちょっと彼に似てる)」
それは埃とカビと、インクに紙、そして僅かに鉄の匂いが滲むあの古本屋の店主の髪色。 涼が出かけてから翌日には、彼はそこには居なかった。 特に悲しいとも、特別寂しい感覚も起きる事はなかったが、緋翔はなんとなく懐かしく思った。 いたことはないが、兄弟がいたら、あんな感じだろうかと、少しだけ。
緋翔はその箱をそっと元の場所に戻し、いつものピンクカラーを手に取った。
「ぇと…」
確かこれと、あとこれと、この色を足してたな。 ブリーチ剤は前に買ったものが未開封で置いてあるから…。 一人でぶつぶつと言いながら、緋翔は腕に箱を重ねていく。
そこで、自動ドアが開いた。
ぶわりと、カシスの匂いが鼻に触れて、緋翔はチラリと入口を見る。
艶やかな黒かみが柔らかくウェーブを描いて、淡いピンクのカーディガンの上を撫でた。 パールグリーンのシフォンスカートの先からは、小さくて華奢な白いブーティーの先が見えている。 コツ、と床を鳴らして、それは緋翔に真直ぐに近づいた。
「こんにちは。 緋翔くん」
「こんにちは。 涼と同じゼミの人」
緋翔は涼とは違う、貼りつけたような笑顔を浮かべた。 アイドルのように明るい、人懐こい笑顔。 その眼の奥には、静かな嫌悪が滲んでいる。
「ふふ。 はじめまして。 私、莉子っていいます。」
莉子はその長いスカートの一部を小さくつまむと、やけに仰々しくお辞儀をした。 緋翔は、それにつられるようにペコリと頭を下げる。 足元に、自分とはやけに違う真っ白な靴先が視線に入って、喉の奥に甘い匂いが粘りついた。 何故か、呼吸がしにくい。
頭の奥で、よくわからない綺麗な風景が緋翔の口元を、小さく震わせた。
「私、緋翔くんに言いたいことがあって来たんです」
莉子はずい、と緋翔に近づくと、その視線の先に自身の視線を合わせた。
鼻と鼻の先が触れそうなほど近い場所で、莉子は笑う。
緋翔は一歩後ろに下がると、もう一度笑顔を貼りつけた。 少しだけ、口元が歪む。
「なに? 俺は、君に用事はないんだけど……」
「そんなこと言わないでください。 大切な事なんです。 だから、ちょっとだけお茶しましょう」
彼女はそういうと、さっさと緋翔の手を引いてレジに向かっていった。 逃げるような間も、考える余裕も与えられずに、緋翔は促されるままに道を歩いた。
背丈は緋翔よりも少し低い。 歩くたびに揺れる髪が、緋翔の腕に絡んだ。 それを振り払う事も出来ず、今では目の前にコーヒーが二つ並んでいる。
緋翔はいたたまれない気持ちのまま、オークルのテーブルの上に並んだカップを見つめた。 置かれていたスティックシュガーを二つと、ポーションミルクを二つあけて混ぜる。 ぐるぐると渦をまいて、褐色はコーヒーブラウンに変わった。 それは回って、やがてゆっくりと静かになる。
ふ、と小さく息を吹いて、そっと口を付けた。 苦みと甘味のある暖かな液体が口の奥に広がる。 それでも、鼻の奥にはカシスが居座っていた。
「緋翔くんは甘い方が好みなんですね。 涼くんは、香る程度にしか砂糖を使わないから」
「そう。 それで…? 俺になんのようなの?」
莉子はにこにこと笑いながら、表情が落ちつつある緋翔の顔を見つめた。 日の光が昇り、花壇の花がふわりと揺れて、暖かな一日を彩っている。
薄い桃色と赤、緑。 それを目で追って、緋翔はようやく莉子の顔を見た。
「私、涼くんとは運命だと思ってるんです」
「…ふぅん」
「だから、あなたは運命ではない」
言われて、緋翔は小さく視線を落として、一口、カップを傾けた。
思考の奥で、運命についての思考が巡る。
運命とは何か。 出会い方か。 それとも、もっと特別ななにかなのか。 日常的などこかに潜んでいる小さな可能性なのか。
読んだばかりの本の内容や、今まで教えてもらった本の内容を頭の中に繰り広げて、緋翔はコクリと、それを飲みこむ。
視線を目の前に向ければ、莉子が陽射しの影でうっすら笑っていた。
「あなたにも家族がいるでしょ? わかるよね。 何が普通で、何が一番幸せの形なのか」
「俺にはいない」
「そんなことない。 もっと、わかりやすく言おうかな」
彼女は自身のコーヒーをゆっくりと飲み、そっとカップを下ろした。 カカオの香りが、カシスに混じって揺らめく。
少し曇った眼鏡が晴れて、ピンクのグリッターがキラリと光った。 視線が甘く重く緋翔を射抜く。
「お母さんがいて、お父さんがいて、子供がいるの。 普通の家庭って、そういうものでしょ? もちろん、片親だからって不幸とは言わない。 でも、どうかな? 理想の家族を想像したら、そこには両親が、いるんじゃない? 違うかな?」
ゴクリ、と喉の奥が鳴った。
笑顔の二人。 その二人の真ん中で、こちらに向かって笑顔を向ける少年の頬には、見覚えのある黒子が並んでいる。 少し丸い輪郭に、上がった口角。 並んだ二人とよく似た、高い鼻。 目元は、母親。 口の形は父親。
白い大きな家の前。 その表札には「久留間」の文字が書かれていた。
ブ、とスマホが鳴る。
緋翔はそこで、やっと空気を吐き出した。
「じゃあ、そういう事だから。 よく、考えてみて。 涼くんの、本当の、幸せ」
緋翔は何も言えずに、先程までいた彼女の席をただ見つめた。
視線の先には、カップが二つ並んでいる。
空っぽのカップと、冷めたコーヒーが入ったカップ。
日が傾いて、窓から差し込んだ光がその指先に触れて、やっと、緋翔は店を出た。
何度かポケットのスマホが震える。
それを今は、開ける勇気が緋翔には無かった。