物語の額縁 静脈に咲く花

笑うダリア

雨上がりの夜は、ひときわ、静かだった。

 外灯の灯が濡れたアスファルトに揺れる。 

一つの絵画を完成させた帰り道なのに、胸の中は空っぽのままだ。 まるで、晴れきらない曇り空。

―― 何を加えても、あのアネモネのような美しさがは再現できない。

 涼は、ふ……と小さく息を吐いた。

 赤を増やしてみたり、絶望の甘味を広げてみたり、白と黒のアクセントを入れてみたり。 または、減らしてみたりもした。 だというのに、心にはぽかり、と穴が開いたまま何かが足りない。 それが何かは分からないまま、涼はそれでも活動を止める事はなかった。

 ザワリと、ひときわ大きく風が吹く。 着ていた濃紺のコートが翻り、湿った空気が広がる。 そこに、僅かに赤の匂いを感じて、涼はピタリと足を止めた。

 振り返る。 背後には今歩いてきた道が、静かにこちらを見つめている。

 自身のつけてきたニオイとは別の、鮮やかなその匂い。 それを探すように、くん、と鼻を鳴らす。 通りの先、公園の方から香っているようだった。

 涼はそのままゆっくりと足を進めた。 革靴の裏に雨が滲む。

 そこだけ口を開くように、通りに公園の入り口が現れた。 ベンチ、外灯、背の高い木と、僅かに並ぶ花壇と低木。 ポール型の時計が、地面に影を落としている。

 小さな公園。 とくにこれといった遊具もない。 その、桜の木の根元に、何か黒い塊があることに気が付いた。 目を凝らせば、それは微かに、動いているようだった。

 そこから強く香ってくる。 それは、どこか甘くて、腐った果実のように重たい。

 涼はその匂いに導かれるように塊に近づいた。 暗闇に一際濃い影をおとすそれは、よく見れば小柄な青年だった。 枯れたようにしなだれた髪はぼさぼさで、どこもかしこも汚れたままの衣服、そして、半袖から伸びた白い腕には、いくつもの赤と紫が滲んでいた。 その色は真新しくも、古くもある。

「ここでなにしてるの?」

 涼が声をかければ、彼はゆっくりと顔を上げた。

 大きな二重の瞳、左目の下には特徴的な二つの黒子、高く上品な鼻、幼さの残る頬。 一目みて、涼はぐ、と喉を鳴らした。 アネモネが、重なる。

「行くところ、ないの?」

 そこにしゃがみ、そっと聞いてみるが、彼は黙ったまま、また顔を自身の膝に埋めてしまった。 そ、と手を伸ばして、頭に触れる。 とたん、勢いよく顔をあげて、おびえたように口を噛みしめて、ごめんなさい、と小さく震えた。 それはどこか、遠くの誰かに告げているようで、開かれた目は潤んで揺れている。 昔みた、野良猫のそれを思い出した。 他者から与えられた痛みと恐怖が、瞳の奥に渦巻いていて、結局触れる事は叶わなかった。

 涼はそっと手を放すと、ゆっくりとその手を差し出した。 

「俺は鷹村 涼。 君は?」

 差し出した手はそのままに、涼が告げれば、彼は不思議そうに首をかしげたまま、ゆっくりと話し出した。

「くるま はると……」

「へぇ、どんな字を書くの?」

「字は、わかんない。 教えてもらってないから……」

「じゃあ、俺が考えてあげるよ。それなら、どう?」

 そう言えば、“はると”は驚いたように目を見開くと、ぱ、と笑顔になった。 いいの?と、嬉しそうに答える。 やっとこちらを見た目には、うっすらと外灯の明かりが映る。 その笑みに、涼の背中にゾワリとした快感が走った。 笑った。 俺だけに。 俺だけの為に。 それだけで、世界が完成した気がした。

鼓動が早まり、全身に血液が回る。 やけにゆっくりと世界が回り、風景のひとつひとつが鮮明に映るようだった。

 甘い赤が、食欲をそそるような感覚に、涼は確信した。

 みつけた。 足りなかったのは、この子だ。

 迷いは無かった。 ただ、欲しかった。 運命だと思った。

「一緒においで」

 涼がそういえば、彼は少し迷ったように視線をゆらした。 上、右、左、下、上……迷う視線が、最後に涼とぶつかる。 にこり、とほほ笑んで「ね、お願い」と言えば、はるとはその手に自身の手を重ねた。 ゆっくりと立ち上がれば、はるとの手を引く。

 軽い体重が、涼の胸にすっぽりと包まれた。 甘い赤が、肺いっぱいに広がって、心のどこかを埋めていくようで、ゴクリと、喉が鳴る。 涼はひとり、うっとりと笑った。

 雨上がりの夜は、変わらずに静かだった。

 ぽつぽつと照らされた外灯が、二人の青年に影を作り、 湿った空気が、さらりとその髪をやさしく撫でていく。

 涼ははるとの右手に指を絡めて歩く。 冷たかった手が、混ざり、そこだけが、一つになったように重なる。 

 通りには変わらず人は居ない。 見上げた空に、雲はない。 赤く染まった月が、二人の背を照らす。 

 雲の向こうで、何かが笑った気がした。

悠生 朔也

こんにちは、綴り手の悠生 朔也(ゆうき さくや)と申します。 日々の中でふと零れ落ちた感情や、 言葉になりきらなかった風景を、ひとつひとつ、そっとすくい上げています。 この場所では、そんな断片たちを形にして作られた物語たちを飾っています。 完成や正解ではなく、ただ「そこに在る」。 その静かな揺らぎを、誰かと分かち合えたら嬉しいです。

-物語の額縁, 静脈に咲く花