※こちらの作品は、男性同士の恋愛を含んでいます。 また、静けさの奥に潜む痛みに触れる物語です。誰かの輪郭が、過去の陰によって形作られているかもしれません。 読まれる方の心が穏やかである時にそっとお開き下さい。
空気は暗く湿っていた。 冷えたわけではない。 ただ、触れると指が沈みそうなくらい柔らく、ただそこに落ちている。
遠くで車の音が走る。 乾いたブレーキ音が、しばらく夜に浮いてから消えていった。 風はなく、空は曇っていたけれど、雲の色は明るくもなく、暗くもない。 その中間で膨らみながら、街をぬるく覆っている。
涼は廃ビルの前に立っていた。 夜露で湿ったコンクリートが、その背中をじんわりと冷やしている。 階段の奥、歪んだ部屋への入口は、口を閉じたまま待っていた。
壁には一枚のポスター。 角が破れ、中央の人物は顔を半分失っている。 むき出しになった鉄骨からこぼれた赤が、壁の白と調和している。 まるで、描かれた抽象画のようで、涼はそれに視線を滑らせた。
「ん、いいね……」と自然とこぼれた声は、誰にも聞こえない。
足音が近づいてくる。 軽やかに、でも、慎重に選ばれた音。 彼は薄いピンクの髪を揺らしながら、楽しそうな空気で近づいてくる。 涼が視線をやれば、緋翔はにこりとほほ笑んだ。
雲の隙間から僅かに注ぐ光が、緋翔のその肌を一層白く輝かせる。 闇に浮かぶその顔は、ひどく煽情的で美しくもあった。
「今日も、良い夜にしよう」
その言葉が、静まり返った灰色の空間にぽつりと跡を残す。 緋翔はうっそりと笑いながら頷いて、彼の手を取った。 繋いだ手から、二人の体温がぬるく伝わっていく。 冷えた空気に、どこか不釣り合いな生々しさが、二人を満たすようだった。
部屋の扉に手をかける。 軋む悲鳴を小さくあげて開かれた扉の奥には、愕然とちらばる何かの残骸。 割れたガラス、油の染み、壁のシミ ――何一つはっきりした形を持たず、どれもが昨日の記憶のようだった。
そこは古い展示室だった。 今では影だけが残っている。 大理石調の床は割れ、中央の台座は欠けていた。 壁には過去に貼られていた展示ラベルの跡が、恨めしそうにこちらを見つめている。 そのどれもが、もう「何か」もわからない。 中央に、僅かに身じろぐ白い布の塊だけが、この部屋で呼吸をしているようだった。
涼がそっと手を差し出す。 緋翔は無言でコートを脱ぎ、はめていた手袋もはがすと、その手に乗せた。 これから始まる儀式のような一連の動きは、何一つ無駄が無い。 受け取りながら、涼はにこりとほほ笑んだ。
「今日はどうしたい?」
涼の声は静かだった。 じっと目の前のオリーブグリーンの瞳を見つめる。 きらきらと輝いて、暗く、底のみえない、心地よい闇の奥に、僅かに熱がこもる。
涼は緋翔の頬に手をそえ、優しく囁いた。 「深く沈む?それとも、浴びる?」
ふ、と小さく息が漏れた。 内側に潜む緋翔の本能が、その言葉だけで震える様にあふれ出る。 ゆらりと滲んでいく深緑が、弧の字を描いて、涼の瞳に無言でこたえる。 ―― 涼の、望む方法が、一番好き ――
涼は瞳で頷くと、その右手に絵筆を差し出す。 黒い袖の先から伸びた腕は白く、美しく、汚れていない。 カチャリと音を立てて、切っ先が緋翔の掌で踊る。 キラキラと月明りだけが反射して、まるで小さなミラーボールのようだった。
緋翔は白い塊に絵筆を走らせる。 コプリ。 ポトリ。 ピチャリ。 部屋の中に広がる赤が、展示室に描かれていく。
「いいね、次は上に赤が欲しいな」
涼の、懇願とも、指示とも聞こえるような低くやわらかな声が部屋を支配する。 絵筆が床から天井へと弧を描いて赤が踊る。 視線だけで「こう?」と告げれば、涼は満足気に口元をゆがませた。 呼吸がうすくなると同時に、部屋が完成されていく。
部屋の真ん中。 赤く染められていく緋翔を、月明りが照らしている。 ピンク、白、赤、黒、走っていく筆の跡。 かは、と笑顔を浮かべた緋翔の喉が喜びの音を吐く。
月のスポットライトを浴びた彼は、彫刻のように完璧に美しかった。
短く息をこぼす音だけが部屋を満たす。 赤が乾いて、灰に近い色になっている。 鉄、カビ、サビ、ホコリの匂いが風に乗せてじっとりと肌にまとわりつくように濃い。
両手いっぱいの赤に顔を埋めて、緋翔はうっそりとほほ笑む。 視線を涼にむけると、彼はニコリとほほ笑んだ。
「ん。最高傑作だね」
どこかで猫の鳴く声がした。 窓の外はいつもと変わらない。 暗く、じっとりと、緩やかに、優しく、夜が広がっている。
音が遠のいて、深海に沈む。 この世界には、二人しかいなかった。