涼はそのノートを前に、ただ立ち尽くしていた。
それは何の変哲もないB5サイズの、薄い青色をしたノートだった。 表紙に何かが書かれているわけでもなく、大学のリュックに入っている他のノートと変わりがない。
これといって使い古したようにも、新品でもなく。 よくあるただのノート。
それだというのに、そのノートだけが特別な物だと、記憶ではなく体の内側がそう告げていた。
階段から転げ落ちて、病院で目覚めてから、自身の記憶の中に何かが足りていないことはわかっていた。
スマホの画面には、モノクロのアネモネの花が枯れている。
それを見ると、頭の奥が赤く染まるような痛みが走しる。
だというのに、それが何なのか、何を意味するのか、全く思い出せずにいた。
せめて何かヒントが無いかと、メッセージアプリを開けば、そこには一人の名前しかない。
【緋翔】
と書かれたそれを見ると、視界の先にあのアネモネが咲く。 胸の奥が締め付けられて、掌がゆるやかに熱を持った。
好きとも、愛しいとも、どこか違う。
執着とも、渇望とも、言い難い何か。
赤黒くて、どろりとした重たいものが、喉の奥から溢れるような感覚に、涼は一度、ゴクリと喉を鳴らした。
何故か、すぐにメッセージを開くのが怖くて。
結局、家に帰って、何もないように過ごした翌日。 大学の教室でそっと開いて。
そして、返事もできないままに、そのまま画面を閉じた。
帰宅後の“緋翔”の様子から見るに、特別な関係であった事は明白だった。 距離も、表情も、声も。 そのどれもが、甘さを含んでいたから。
それを受け止めながら、どこか自分が後ろめたい気持ちになって、涼はただ、何も言えないままに笑うしか出来なかった。
彼はそれを、わかっていたように思う。
絡める様に伸びた指先が震えていたし、笑った笑顔の奥に、底知れない闇が見えていた。 ふわりと笑う度に、言葉を落とす度に、何かが消えていくような。
それを留める方法も、何故そうしたいかもわからないままに、涼は誤魔化すように、朝早くアパートを出た。
僅かに、胸の奥が傷んだような気がした。
大学の食堂で、意を決して見たメッセージの履歴は、その殆どが日常の会話だった。 夕飯の買い出しや、映画の話。
なんてことはない洗濯物の会話や、不思議なスタンプだけの会話も多くみられた。 自分の物のはずなのに、どこか他人の物語を盗み見ているような感覚が、飲みこんだコーヒーよりも苦い。
ふ、と吐いた息は、思いのほか冷えていた。
「(今日の、夜…か)」
涼は、一つのメッセージに指を添えて、心の中で呟いた。
それは、昨日の自分が送っていた、最後のメッセージ。
―― 明日の夜。
それを見る度に、脳の奥が、じりじりと焼ける様に思考が震えて。
知らないはずの、鉄の匂いが口の中に廻る。
同時に、ふ、と浮かんだ、青いノート。
は、と思い出したように、涼はリュックの中を探った。
数冊のノートと教科書に参考書。 その、ちょうど真ん中あたり。
同じノート。 同じ色のはずなのに、なぜかそれが、重要なノートであることが涼にはわかった。 迷いもなくそれを手に取って、そして、そのまましまう。
理由は、わからない。
それでもそれは、今、ここで、人の目のある場所で開いてはいけない。
そんな気がした。
そうして、一人、大学の個室トイレの中で、ノートを前に佇んでいる。
人もまばらになった夕方の時間。 人の出入りもほぼない。
ここでなら、開いても問題ない。
涼はそのノートを、震える手のままにそっと開いた。
ペラリ、と紙の擦れる音が、やけに大きく感じて、息を潜める。
細目の罫線の上に、赤いペンで、それは書かれていた。
内容は、ただの観察日記のようなものだった。
花の名前と、日付。
水を与えた回数や、与えた物。 それに、花の大きさや、どこに咲いていたか。
枯れた時はどうだったか。
ただ、それだけだった。
「ぅ、ぐ……っ」
それだけ、なのに。
胃の奥からこみ上げる吐き気が、喉を這いあがって、涼は勢いよく吐きだした。
ぐ、と我慢をしようとしても止められず涼はぐったりと膝をついた。
浅い呼吸を繰り返し、なんとか落ち着かせようとして息を吸えば、急な酸素に肺が拒絶して。 ゲホゲホと咳き込めば、また何かがこみ上げてきた。
文字は、普通だった。
内容も問題あるような物でもなかった。
でも。
涼には読めてしまった。
綺麗に咲いた花。
赤と、灰。
与えた水。
日付。
枯れた、カタチ。
脳裏に浮かぶ、鮮烈なまでの赤と鉄。
そして
「緋翔くん……」
綺麗に咲いた。 アネモネ。
スマホの画面が、赤く染まったような気がして。
涼はそのまま、目を閉じた。
もしこの、「明日の夜」が、自分の思った通りであったなら。
そこまで想像して、涼はゆっくりと、息を吐いた。
それなら、どうするべきなのだろうか?と。
緋翔のあの姿が、もし本当にあったことだとしたら。
自分のノートに書かれていたことが、自分の読み方が妄想ではなかったとしたら。
現実にあった事だとしたら。
ぐっと、再びこみ上げる吐き気を飲みこみ、涼はゆるりと、立ち上がった。
そうだとしたなら。
これは
「異常だ」
ぽつり。
そうこぼした声は、覆いかぶさるように響いた。
ノートをリュックにしまい、涼は口元を乱暴に拭うと、レバーを押し込んだ。
ぐるぐると便器の中を水が流れて、汚物が飲みこまれていく。
それをじっと眺めて、涼はトイレをあとにした。
心の奥で、自分が言う。
今なら、まだ間に合う。
コツ、と鳴った革靴の音が、涼の後に続く。
冷たい廊下の奥で、沈んでいく夕日が静かにそれを包んだ。
赤は掠れて。
静かな闇がゆっくりと涼の背中を撫でていた。