真っ暗な空間に、ポツリとそこだけ切り取ったように当たるスポットライト。
その真ん中には、仰々しい装飾の施されたイスが一つあり、涼はそこに、腰かけていた。
目の前にはガラスケースに入れられた、枯れたアネモネが置かれている。 それがどこか悲しげに見えて、涼は自然と視線を逸らした。
辺りを見回してみても、何もない。 自身を照らす灯を見上げて見ても、そこにライトの様なものも無かった。
不可思議な空間の中で、涼はこれが夢だと気が付いて。 そのままそっと、目を閉じた。
肌をなでる風も、音もしない。
僅かに、懐かしい匂いだけが、そこにはあった。
それに小さく息を吐いて、ゆっくりと目を開ける。
すると、暗闇の奥から誰かの足音が聞こえた。 革靴の、乾いた音が少しずつ近づいて、ピタリと止まる。
視線を向けて見ると、スポットライトと闇が交じり合う薄い線の上に、見覚えのある靴がこちらを向いていた。
「やぁ。 随分と、つまらなそうだね」
その声は、目の前から聞こえるはずなのに、やけに近かった。
抑揚のない、感情を抑えた様な声が、闇の奥でくすりと笑う。
「ねぇ……あの花は、どうだった? 見たんだろ?」
「花…?」
「そう。 あの、ピンクの花」
その言葉に、涼の頭の奥で鮮やかなピンクの髪が、揺れた。
カビとホコリの中で、赤と黒に塗れた、白い肌と恍惚とした唇が、鈍い肉を割く音に重なってしなる。 弓なりになる背中に、ごくりと、唾が喉を鳴らした。
「っふふ。 美しかっただろ?」
その言葉に、涼は視線だけを目の前に置かれた花に向けた。 枯れて、どこもボロボロになっているのに、それは凛と立っている。 赤黒い花びらですら、まるでそれが初めからその形であったかのようで。
危ういバランスと、美しさがそこにはあった。
「あれは……異常だ」
そう告げれば、目の前の花が、微かに震える。
ひらり、と一枚。 赤が散った。
「はっ。 よく言う。 それを見て、触れたくなったお前は、正常だとでも?」
ぐっと、息が詰まる。 違う、と否定する言葉はいくらでも浮かぶのに、それは音にならないままで胸の中に重たく沈んで行った。
強くにぎった掌が、答えを出せぬままに震える。
「俺は知ってるよ。 お前が、どう感じたのか。 本当は、どうしたいのか」
「俺は……」
「一つ、忠告しておくよ」
カツ、と音が、目の前に響く。
光の中に、すらりと伸びた黒い足。
鉄と緑茶の混じった、知っている香り。
「あれに、気安く触れるな」
―― あれは、俺の物だ。
その声は、確かに、自分の声だった。
ハッ、と短い息を吐いて、涼は目を開いた。
見知った天井はまだ薄暗く、時計の針を見れば朝の四時を過ぎたところ。 浅い呼吸を繰り返しながら、涼は一度その身体を起き上がらせると、自身の目をその手で覆った。
背中が冷えているのに、腹の内側だけがやけに熱い。 それを逃がすように長く息を吐くと、涼はちらりと、視線を横に移した。
昨日はあったはずの、ピンクの頭はそこには無かった。
涼は無意識にそこに手を触れて、さらりと撫でる。
冷たいシーツの感触が、指先を冷たくして。 何かを確かめる様に、涼はその手を強く握りしめた。
あの場所から帰って、呼吸が落ち着いても、涼の頭からあの光景が離れる事は無かった。
食事も、シャワーも。
何もする気が起きないまま、そのままベッドにその身を投げて。
知らぬ間に眠っていたようだった。
しわくちゃになったコートに、まだあの匂いが残っている気がして、涼はそれを脱ぎ捨てると、乱暴に床へと放りなげる。
それは視界の隅でくしゃりと項垂れて、まるで何かの抜け殻の様に見えて。 涼は逃げる様に、リビングへと向かった。
薄暗い部屋に、人の気配は無い。
なんとなく玄関の靴を見ても、そこには脱ぎ散らかすように乱れたままの、自分の靴だけが置かれていた。
あれから。
あの場所から、すでに数時間以上が経っていた。
緋翔は、帰ってきて居ない。
まだ、あの場所にいるのか。 それとも、帰ってこないつもりなのか。
涼はそれがわからないまま、静かにソファに腰を下ろした。
僅かに軋んだ音と、コチと鳴る時計の音だけが部屋を満たす。
ふと、向けたテーブルには、コーヒーの入ったままのマグカップが置かれていた。 茶褐色の苦みが、冷たいまま、涼を見つめている。
涼はそれを手にとると、そっと口を付けた。
冷たくも、暖かくもない。
苦くて、酸味が強くなったそれは、やけに重たかった。
一口飲みこんだだけで、胃の奥がもたれるような気がして、涼はそれを持ち上げると、台所に全て流しこんだ。
何も置かれていないシンクに、ぼんやりと自身の顔が映る。
その上を茶色い液体がゆらりと広がって。
それはまるで、錆びて、酸化した赤のようで。
涼は蛇口を勢いよくひねると、コップに水を注いだ。
溢れた水が、何もなかったかのようにコーヒーを流していく。 コトリ、と置いたカップの縁だけが、僅かに茶色く色を残していた。
涼はその縁を軽くなぞると、そのまま洗う事はしなかった。
そうしてソファに戻ると、ゆっくりとその身体を横にする。
ベッドには、戻れなかった。
そこに戻れば、嫌でもあの香りを近くに感じてしまうから。
緑茶と、金木犀の、混ざり合った匂い。
その一つは、自身からしているはずなのに。
どこか他人のように思えて、頭の奥が熱く焼ききれるような気がした。
それが何なのか。
どんな感情なのかわからないまま、涼は目を閉じる。
窓の奥を、一台の車が通り過ぎていった。
静かに、秒針の音が時を刻む。
いくらそれを聞き続けても、
あの花の足音は、聞こえてはこなかった。