「わ、びしょびしょ」
そう言って、緋翔は足早にバスルームへ駆け込むと、大きなタオルを涼の頭にすっぽりとかぶせた。
がしがしと乱雑に拭くその腕を掴む。 細すぎず、骨の太さがわかるよな、白い腕。
涼はその腕を引き寄せると、緋翔の体を抱きしめた。
「涼~、オレも濡れちゃうんだけど……」
「ん、おそろい。 緋翔は、あったかいね」
「涼が冷えてるんだよ。 お風呂、入らないと風邪ひいちゃうよ?」
腕の中の緋翔は、くふくふと嬉しそうに笑いながら、その腕を放すことはない。 視線の下に、ピンクが揺れて、根元の黒が、涼の心を少しざわつかせた。
先程の青年の、うっそうとした笑みが脳裏に浮かぶ。
「ね、緋翔。 一緒に、入ろうよ」
そう言えば、彼は一瞬体をこわばらせる。 ゆるゆると視線を上に向け、涼の顔を伺うように見つめる。 深緑の大きな瞳ごしに、ひどく暗い目をした涼の顔が映った。
じっと、ただ玄関で見つめあう。
返事を待たずに、涼はそのまま緋翔の唇を奪うと、そのままバスルームへと向かった。
僅かに見える、あの男の影を探るように。 すべてを自分に塗り替える様に。
緋翔が涼の名前だけを呼んでいても。 求める様にすがりついても。
外も、中も、全て塗りつぶして、それでも……
僅かな不安は消える事は無かった。
翌朝、涼は一人部屋を出た。
昨夜から降り続けた雨は、その足を弱めている。
雨の残り香の中を、黒い傘がゆっくりと進んだ。
休日の雨の朝。 歩く人はまばらで、通りのバス停にも人は少ない。
車が、水たまりを蹴飛ばして通り過ぎて行った。 ビシャ、と足元に跳ねるのも気にせず、涼はまっすぐにあの本屋へと向かう。
開店前の店。 扉には“CLOSE”の板が置かれ、カーテンが引かれている。 涼はその前に立ち、彼が来るのを待った。
こそこそしたところで、彼には意味が無いと思ったからだ。
ほんの少しの会話。 たったそれだけでも、あの青年の視線の奥には、陰鬱な狂気と快楽が滲んでいた。 あまり好ましくはないが、確かに似ている、と涼は思う。
だからこそ、緋翔とは、関わらせたくなかった。
「おはようございます。 涼さん」
「気配を消して近づくなんて、趣味が悪いね」
振り返り見れば、真っ黒なコートに真っ黒なズボン。 ひどく古びたスニーカー姿の青年が、陰鬱な笑顔を浮かべていた。
涼と同じ、黒い傘。 雨がはじけて、僅かに涼の傘に跳ねた。
「すみません、癖、なので。 今開けるので、ちょっと待ってくださいね」
彼は涼の返事も待たずに、さっさと横に入り込むと鍵を開けた。 店内にある傘立てを出すと、「どうぞ」と笑顔を浮かべる。 涼はそれに傘をしまうと、青年の後ろに続いた。
カーテンがしまったままの店内は薄暗く、二人の表情は灰色に映る。 二人きり。 いわば、絶好のチャンスのような状態を作る彼に、涼は心底嫌な気持ちになった。
やればいい。
できるなら。
そう、言われているような気がしたからだ。
「俺だけ名前が知られているのは、気持ちが悪いんだけどな」
「それは失礼なことを……。 ボクの名前は、榛 鳳花(はしばみ おうか)と言います。 この本屋の、店主です」
「以前は、ご夫婦で経営なさっていたように思いますが?」
といっても、この店はここ数年開いていたことはない。 涼が記憶しているのは、この店の準備をしている、若い夫婦の後姿だけだ。
幸せそうに笑う二人の指に、キラリと光る指輪を見て、心機一転、新しい土地でがんばろうとしている新婚夫婦のように見えた。
しかし、それからこの店が開いているのを見た事が無い。
それこそ、ここ数ヶ月の話だった。
「ええ。 譲って頂きました。 残念ながら、暇、ですけれど」
あぁ、そういう事か。 と、涼は納得する。
彼らが今どこでどうしているのかなんて、目の前の男の顔を見ればすぐに理解できた。 うっそりと笑う口元に反して、その目の奥には嫌悪が滲んでいる。 どういう理由かなんて興味もなく、涼はただ、彼が“何をどうしたか”だけを、その肌で感じた。
同時に、面倒だと思う。
「そういう事でかまわないよ。 本題は、ここからだからね」
「緋翔くんのこと、ですか?」
緩やかな笑みで紡がれたその名前に、涼は胃の奥が煮えるような気持になった。 ふつ、と上がって、喉を焼く。
表情には出さずとも、吐いた息には殺意がこもっている。
「ここから、いなくなるか。 消えるか。 どちらがいいかな」
選ばせてあげるよ。 と、さも親切そうに告げれば、鳳花は僅かに視線をそらした。
少し、名残惜しそうに目の前の本を撫でる。
指先についたホコリを見つめ、ゆっくりと目を閉じた。
「わかりました。 ボクは、必要の無い仕事は、しない主義ですからね」
「そうだね。 俺も、趣味じゃない作品なんて、作る気はないから助かるよ」
涼はそのまま、彼に背を向けた。
無防備なまま、やれるもんならやってみろと、その背で語って外にでる。
幸い、雨はもう止んでいた。
傘立てから忘れずに傘を持ち、アスファルトを進む。
まだらな人影はそのままに、水たまりに映った空が灰色に揺れている。
かき消すように靴を落とせば、波紋とともに掻き消えた。
ポケットのスマホが揺れる。
涼は、それを見る事もなくマンションへと向かう。
寝ぼけたままの髪で、こちらを見つめる彼に、
とびきりの赤を滲ませよう。
涼はそう一人決めて、ひっそりと笑った。
背後の灰は薄れ、赤が胸を覆う。
それはひどく、甘くて、癖になる香りだった。