物語の額縁 静脈に咲く花

ベラドンナの指先

「ねぇ、鷹村君。 私思うの。 あの子は、あなたにふさわしくないって」

 夕暮れの光を背に、その女性はそう告げた。

 乾いた風が吹いて、その黒くて長い緩やかなウェーブが煙の様に広がる。

 立ち止まったまま、貼りついたような微笑のままの涼の鼻に、重たいカシスの香りが広がった。

 喉の奥にまとわりついて、嫌な予感が脳裏をよぎる。

 首の後ろが、ひやりと冷たく感じた。

「君は確か、同じゼミの……」

 涼が何の感情も乗せずにそうこぼせば、黒い髪が嬉しそうに揺れた。 涼よりも頭一つ分低い位置で、丸い眼鏡がきらりと光る。

 丸みを帯びた頬には薄いピンクのチークがのり、唇には淡いローズピンクの口紅が艶やかに弧を描いていた。

 ベージュのゆったりとしたニットに、ふわりと広がった白いレースのロングスカートが、可愛いを演出しているようで、涼は僅かに眉間にシワを寄せる。

 袖の隙間から覗く、白とピンクのフレンチネイルが、ローズピンクにゆっくりと添えられた。

「わぁ、覚えててくれたんですね! 嬉しい。 私、鵠沼 莉子(くげぬま りこ)と言います。 莉子って、呼んで下さい」

 こてん、と首をかしげるようにして、莉子は花が開くように笑った。

 男のツボを心得たような仕草の一つ一つが、乾いた異物を飲みこむようで心地が悪い。 わずかに咳ばらいをしたが、その喉は乾いたままだった。

「で、鵠沼さん。 俺に何か?」

「ふふ。 ここじゃあ何ですから、カフェに行きましょう。 そしたら、お話します」

 夕日を背にした彼女の目元に、暗い灰色が落ちていく。 ぱちりと閉じた瞼にはピンクのラメ。 長いまつ毛が開いたその奥、暗い執着が涼をとらえて絡みつく。

 涼はしばらく黙って、ポケットのスマホを取り出した。

 小さな赤い花のスタンプに既読を付けて、【遅くなる】とだけ。 小さな振動はすぐにきて、アネモネが柔らかくほほ笑んだ。

「それで?」

 案内された窓辺の席に、二人は向かい合わせに座った。 通りには帰路へつく人々が行き交い、店内にはまばらにしか人が居ない。

 オークルのテーブルに置かれた暖かな紅茶を一口飲んで、莉子はゆっくりと笑う。

 涼の手元には、先程届いたばかりのコーヒーがそのまま置かれていた。

「涼くんって呼んでもいいですか?」

「断っても、君は呼ぶんだろうね」

「ふふ。 ね、涼くん。 私、貴方の事が好きなの」

 ふぅ、と尖らせた口が、紅茶の湯気を揺らした。 ダージリンと、ほのかにベリーの香りが、涼の顔を曇らせる。

「そう。 ありがとう。 それで?」

「え?返事くれないの?」

 こて、と小動物を思わせる様にかたむく首に、涼は貼りつけた笑み濃くする。 本音を見せないように作られた顔のまま、涼はそっとコーヒーカップに手を添えた。

 真っ黒な液体に映る自身の顔に、ふ、と鼻から息が漏れる。

「必要なさそうだから。 鵠沼さんは、求めてないでしょ」

 涼が感情を乗せずにそう告げれば、莉子は嬉しそうに笑った。 少しゆれる肩が、小さな花をほころばせていく。 カシスの香りが、涼の首にまとわりつくようだった。

「そうかも。 だって、私、貴方とは運命だと思うから」

 涼は視線を合わせずに、スティックシュガーをコーヒーに注いだ。 軽くうわべを混ぜて、カチャリとスプーンを下ろす。 ほのかな甘さが、コーヒーの香りを際立たせて、カシスが少し和らいだ。 ふ、と吐いた息が、カップの縁をかすめて消える。

 莉子はそれでも、笑顔のままに涼の瞳を見つめている。

 涼はほんの一瞬その視線を合わせると、無言で先を促した。

「だからね、私、思ったんです。 貴方と、彼は、運命じゃないって」

 ぴく、と涼の指先がゆれる。 持っていたカップを下ろし、閉じたままの目の奥で彼女が苦しむ。 その目を見開いて、空を見つめて、冷えて固まっていく皮膚には灰色がにじむだけで赤はない。 塊。 ただの、肉が横たわる。

「いつも一緒に買い物行ったり、映画に行ったりしてますよね。 一緒に住んでるんですね。 可愛らしいピンクの髪と、どこか幼い顔の、確か…緋翔くん、でしたっけ」

「その名前を呼ぶな」

「んふふ。 ほら、怖い顔してる。 あの人じゃ、本当の幸せをあなたに与える事はできないんですよ」

 知ったように告げる莉子は、どこか湖面に浮かぶ月のように不確かな顔で笑う。 うっとりと笑いながら、涼のその手にフレンチネイルが触れた。

 つ、と指の付け根から先を流れて、小さくその先を握る。 簡単に解けるような力で握られた指先から、逃げられないような熱が滲んだ。 心地の悪さと嫌悪感に、涼はコーヒーを飲みこむことで逃れる。

 味のしないそれを飲みこめば、脳裏に咲いた花が小さく笑う。 それを、カシスが塗りつぶして、涼は席を立った。

 お札を一枚おいて、コートを羽織る。 何も言わず、視線も送らずに、そのまま店を出た。 背後に確かな、粘着質な視線を感じながら。

 莉子はひとり、涼の飲んでいたコーヒーを見つめた。

 ゆっくりとそれを回して、のこりを飲み干す。

 苦みのあとに、甘さがその口に広がった。

 傾けたカップに、ザラついた砂糖が貼りついている。

 それをスプーンですくって、舌で舐め上げた。

 ザラついた甘さが、毒のように腹を満たしていく。

 静かな店内に、静かな溜息が一つこぼれて消えていった。

悠生 朔也

こんにちは、綴り手の悠生 朔也(ゆうき さくや)と申します。 日々の中でふと零れ落ちた感情や、 言葉になりきらなかった風景を、ひとつひとつ、そっとすくい上げています。 この場所では、そんな断片たちを形にして作られた物語たちを飾っています。 完成や正解ではなく、ただ「そこに在る」。 その静かな揺らぎを、誰かと分かち合えたら嬉しいです。

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