大学の図書館に一人、涼はゆったりと座りながら本をめくる。
本の表紙にはソクラテスの弁明と書かれている。 それをじっくりと、かみしめるように眺めては、無表情のまま、ペラリと頁をめくった。
緋翔の様子がおかしくなって、十日ほどが過ぎた。
殆どの時間を毛布の中にくるまり、それでも朝と夕方には、食卓に共につく。 顔はどこか作ったような笑いを貼りつけ、時折その眼を辛そうに歪ませた。
そんな緋翔に、涼はただ、いつも通りに接していた。 じわりとその身体を巡る毒を抜くには、時間が必要だった。
あせっても、取り繕うように言葉にしても、逆効果だ。
枯れかけの花に、突然大量の水を与えたら腐るように。 必要なタイミングで、必要な分の栄養を与えなくては、花は綺麗に咲いてはくれない。
陽射しは穏やかだった。 大きな窓からは、晴れた空の青と白が綺麗に見える。 木々の下、ベンチ、外で座りながら話をす人々も多い。
そんな気持ちのよい午後。
図書室の一角では、ひそひそとした話声が聞こえる。
「音信不通になってから、もう5日だよ」
「流石におかしくない?」
「聞いた話だと、親も警察に相談したって」
「莉子、大丈夫かな……」
いつも一緒。 遊びに行くにも、ランチをとるのも一緒。 ただ、彼女達は莉子と涼がとっている講義には出ていなかった。 それゆえに、莉子が涼に接触していたことも、莉子が涼に好意を抱いていたことも、知ってはいないようだった。
莉子は、案外、警戒心が強い子だったのだろう。 いつだってグループの中心にいて、それでいて笑顔も絶やさない。 ただそれは表の顔で、本心は「誰も信用していなかった」。
だから、誰にも知らせることもなく、あの場所へと向かってくれた。
涼はその会話に満足そうに笑うと、そっと席を立つ。
まだ半分ほどしか読み終えていないが、それでも、ここにいる必要はなくなった。
本を所定の場所に戻して、そのまま図書館をあとにする。
外は心地よい風が吹き、木々の香りがふわりと滲んでいた。 花壇の花は咲きほこり、みずみずしい葉は青々として、柔らかく揺れる。 涼はそれを横目に、思考の奥でアネモネを思った。
話をしてくれるまで、何も言うつもりはない。
いつも通り、変わらず、それでも離れずに。
どんなに悩もうとも、誰かに何を言われたとしても、変わらない。
はるとではない。
緋翔である事。
その為に、涼がいる。
涼がいる限り、はるとは緋翔になれる。
あとは、彼自身がそれに気が付いて、どうしたいか、だ。
とはいえ、逃がすつもりは無いと、涼はうっそりと笑った。
教室の端、適当な席に座って、
涼はいつものように、スマホでメッセージを送る。
【今日の夜は、何が食べたい?】
しばらくして、すぐに既読の文字が付く。 じっと、その画面を見つめていれば、【チキンオーバーライス】 とだけメッセージが届く。
その言葉に、胸のどこかが少しだけ暖かくなった。
緋翔が大好きなそのメニュー。 それは、外でしか食べる事が無い。
即ち、外に出たい、そういう事だ。
【じゃあ、いつもの場所に、いつもの時間で】
ブ、と小さく揺れて、黒猫が笑った。
緋翔のお気に入りのそのスタンプ。
最近では使われる事のなかった、いつものスタンプ。 たったそれだけだというのに、ひどく安心して、涼は小さく息をついた。
そして、今頃枯れて散っているであろう、ベラドンナの花を思い浮かべる。
今頃、人間としての尊厳などなくなっている事だろう。
生きているなら、それはひどく辛い状況に違いない。
いっそ殺してくれと、そう懇願するかもしれない。
それとも、それすら分からない状況になっているか。
どちらにせよ、生きてはいないだろう。
あの花は、作品になる価値などない。
ましてや、自身が手を下す必要など、あるはずもない。
アネモネの花を、緋翔を、壊そうとしたのだから。
身をもって、自分の価値を知ってもらわなければならない。
お前は、殺されるほどの、価値もないのだと。
涼はノートの端に、小さな花を描いた。
それは少し枯れていて、しなだれて、それでも咲いている。
それを指先でなでる。
黒いインクが伸びて、かすれる。
その上に、赤いペンで色をつけた。
丁寧に、ゆっくりと、線をひくように色をつけていく。
しおれた花に、色が戻る。
枯れていない。
赤を落とせば、それはやけに瑞々しく、そこに咲いた。
あれから、まだ緋翔の髪は染めてはいない。 声をかけても、ピクリと体を振るわすだけで、頷きはしなかったから。
今日、夕飯を食べた後、もう一度聞いてみようと思った。
もしかしたらまだ頷かないかも知れない。
それでも、彼は変わらず、そばにいる。
ふと見た外に、二羽の鳥が飛び立っていった。
寄り添うように空を舞う。
落ちていく日は赤い。
鳥達は弧を描いて、赤に向かって飛び、そして見えなくなった。
傾いた日が、教室に注がれる。
ノートの上に、赤い日が落ちる。
緋翔の髪の色と、咲き乱れた、あの美しい横顔を思い出した。
鼻の奥に、懐かしい鉄の香りが広がって、
涼は喉を鳴らした。
緋翔の味が、その喉を満たしていくようだった。