目の前は、赤ではなく黒かった。
時間の経ったそれは固く、どんなに強く引き裂いても、思うように赤が飛び散る事も無かった。
これじゃダメだ。
もっと、赤を足さなきゃ。
―― 涼なら。
その名前が頭に浮かんだと同時に、緋翔の身体が動かなくなる。
ゴツ、と。
滑り落ちたナイフが、濡れたカーペットの上にすべり落ちた。
腐敗した肉の匂いがそれを包み込み、僅かに舞ったホコリがその上に降り注ぐ。 それは赤黒いカーペットを微かに白くしたが、すぐに黒に消えていった。
ゆらりと立ち上がり、緋翔は幽霊のように壁まで進むと、崩れる様に身体をそこに預けた。 ずるりと、剥がれた壁紙がピンクの髪に絡んで、ぷつりと一本髪が抜ける。 小さな痛みが頭に走っても、緋翔はそのままそこにしゃがみ込んだ。
だらりとその腕を重力に任せて、ぼんやりと部屋を見渡す。
重なったテーブルも、椅子も、ホコリに塗れたカウンターも。 ここに初めて来た時と何も変わっていない。
変わったのは、ここにあるモノの状態だけだった。
緋翔がここに来たのは、偶然では無かった。
涼が忙しくなって、作品を作れない日々が続いたある時に、突然届いた一通のメール。
それに、緋翔は首を傾げた。
このスマホは涼が全て、緋翔の為に用意したもので、必要な設定もなにもかも、緋翔には理解も出来ていなかった。 その為、入っているアプリはほんの少しだけ。
カメラ。 通話。 無料メッセージアプリ。 地図。
そこに、初めて見るマークが追加されていた。
灰色の背景に、白い封筒。
そのマークの上に、①と表示がされていた。
緋翔はそれに不思議になりながらも、なんとなくそれに指を重ねると、見たこともない画面が開いた。 差出人の部分には「Hazel」とだけ。
文字を軽くタップすれば、そこには地図と、一言だけのメッセージ。
《君にあげる》
普段の緋翔なら、それをただ無視するだけで、そこへと向かう事はなかった。
でも……
何故か、そこに行けば、何かが満たされるような気がして。
緋翔は涼には黙ったまま、マップに書かれた場所へと足を運んでいた。
そうして来てみれば、外された南京錠の奥に、贈り物は置かれていた。
すでに息はしていなかった。
それでも、触れてみればまだ暖かくて。
緋翔は震える手のままに、それにナイフを振り下ろしていた。
赤が爆ぜるたびに、胸が鳴った。
熱が腹の奥から昇り、吐く息を赤く染める。
触れる生暖かな液体に、口角が上がり、
耐え切れずに、自身の唇を噛み切った。
溢れる鉄の匂いと、広がる甘い味に、緋翔は深く呼吸を繰り返した。
満たされたはずの思いに、僅かな歪みが走る。
それに気が付かないふりをして、緋翔はいつも、涼の隣で眠った。
勝手な行動をしてしまったことに、後ろめたさはあった。
それだけではない。
涼のように、美しい作品を作れなかった事。
それでも我慢できずに続けてしまった事。
そして、もう一緒に作ってくれないかもしれない不安に、緋翔はただ、目を閉じた。
結局、涼にはバレて。
一緒に作ろうと、言ってくれて。
たったそれだけで、緋翔は全てが満たされるように気がした。
自分を作った人。
俺を、染めた人。
俺を、認めてくれる人。
なのに……
「涼……。 涼は、もう、俺じゃダメなのかな……」
ぽつり、とこぼした声は、重たいままに床に吸い込まれた。
ぎゅっと閉じた目の奥に、出会った頃の涼の顔が浮かぶ。
今よりも幼くて、華奢で。 なのにどこか大人っぽくて。
差し伸べられた手も。
優しく囁かれた声も。
初めて暴かれた熱も。
何もかも鮮明に思い出せるのに、その“涼”は、消えてしまった気がして。
緋翔は自身の膝を強く抱き寄せると、そこに顔をうずめた。
通りを、一台の車が通り過ぎた。
次第に外は明るくなり、閉められたシャッターの隙間から外の光が滲む。 数人の足音が前を過ぎて、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
閑散とした商店街に、誰かの生活の音が混じる。
自転車も。 犬の鳴き声も。
緋翔にはどこか知らない世界の出来事のようだった。
シャッター越しの光が傾き、その色がオレンジに変わっていく。 緋翔の白くなった指先に静かに光が触れた。 それでも、その指先を温める事はなかった。
ポケットの中のスマホは、まるで拒絶したかのように何かを知らせることはない。
静かな空間に、言いしれない寂しさが広がっていく。
身体が消えて、どこにも自分が居ないような気がして。
緋翔はその身体を、強く抱きしめた。
震えた爪が腕に食い込んでいるのに、感じるはずの痛みはどこか遠い。
このままでは、自分が本当に消えてしまうように気がした。
「足りない……」
緋翔はそう呟くと、そろりと、視線を床に移す。
目の前に転がるナイフの刃が、キラリと、誘うようにオレンジを反射させた。
これなら、と、手を伸ばそうとしたその時。
ふわり。
知った匂いが、その鼻に触れた。
それは緩やかな足音と共に緋翔の前に現れると、静かに告げる。
「久しぶり。 緋翔くん」
その声は雨を含んだ葉のように、優しくて、影を含んでいた。
ゆっくりと緋翔が視線を上げる。
目があった瞬間、
灰色の髪が、唇だけで笑った。