物語の額縁 静脈に咲く花

揺れるラベンダー

 壁の時計が、六時を半分ほど過ぎたころ。 何も知らせてこなかった緋翔のスマホが、テーブルの上で小さく揺れた。 それは二回短く揺れると、すぐに静かになる。

 緋翔は飲んでいた紅茶のマグカップを置くと、そっと画面に指を滑らせた。

 いつものメッセージアプリを開くと、先程送った夕飯への変身が届いていた。

【ミートソースにしよう】

【でも、一緒に作りたい】

 涼らしい簡潔な文字列。 その一つを見て、緋翔は、ふ…と笑った。

 画面の上の【一緒に作りたい】という文字。

 それをゆるく撫でて、緋翔は返信もせずに、そのまま画面を閉じた。

 “一緒”

たったのその二文字に、胸の奥が暖かくなって。 緋翔は一度視線を落とすと、涼の柔らかい笑顔を思い浮かべた。

 すこし困ったように下がる眉毛も、細くなる目元も、ゆるく上がる小さな黒子のある口角も。

いつだって、彼の笑顔は、緋翔にだけ優しかった。

嬉しくて、大切で。

だからこそ少しだけ、今は物足りない。

涼と二人で作品を作る。

その一つだけが確かに今、欠けていた。

最後の作品が作られてから、数ヶ月。

何もないままに過ぎる日常も楽しかったが、それでも、緋翔の腹の奥は、しずかに疼いていた。

そんな時に、見つけてしまったのだ。

たまたま迷い込むように辿りついたさびれた商店街。

確かな鉄の匂いに連れられて入った、あの場所。

すでにソレは、そこにあって。

気が付けば、満たされない何かを埋める様にそこに通っていた。

それだけで、小さな衝動は静まったし、楽しめたように思う。

ただ、どこか、なにか、完全に満たされる事は無かった。

緋翔は、ふ、とため息を一つこぼした。

 視線を窓の外に向ければ、先程止んだ雨空は、赤を追いやって紺色が覆っている。 僅かな星が疎らに散らばり、その隙間には暗い雲が筆を引いたように泳いでいた。

 それらはまるで、一つのキャンバスのようだった。

 覆う紺は、暗がりの部屋。

 星は、飛び散る滴。

 雲は、引き裂かれた布。

 緋翔は一つ一つを指でさしながら、それらを眺めた。

 追いやられた赤は、過ぎた命。

 それならこの三日月は、ナイフといったところだろうか。

 くるくると指で空をなぞる度に、“あの部屋”を思い浮かべて。 はぁ、と熱い息が、緋翔の薄い唇から漏れた。 それはふわりと頬を過ぎて、僅かに赤を落としていく。

 緩やかに弧を描いた緋翔の目が、ガラス越しの月に重なった。 それは鋭くも、美しいままに、空に溶け込んでいた。

 しばらくそうして空を見ていると、いつもの足音と扉の音が部屋に響いた。 緋翔は細めていた目をパッと開くと、玄関へとかけていく。 素足のままの足の指が、ペタペタと床を鳴らした。

 玄関では、涼が濡れたコートの先を手で払っていた。

 小さな水滴が、パタパタとその手をぬけて、タイルの上に小さなシミを作って消える。 その横を、湿った髪の毛から下たる滴が落ちて、ポツリと音を立てた。

 涼はそれを気にもせずに、走りよる緋翔に笑顔を向ける。

「涼、おかえ、り……」

「ただいま緋翔。 ―― どうしたの?」

 そう問いかける涼の言葉に、緋翔は答えられなかった。

近づいた瞬間、全てがわかった。 その場で、呼吸だけが止まった。

薄いコートに滲む霧雨。

鉄と、カビと、緑茶。

それらが一瞬にして、鼻孔を過ぎて、緋翔の目の前に小さな火花が散った。

はく、と。

吐いた息だけが、涼の声に応える様に揺れる。

「ねぇ、緋翔」

 涼は濡れたコートのまま、ゆっくりと緋翔の身体を包み込んだ。 湿った袖口が、緋翔の腰を僅かに濡らす。 じんわりとした冷たさが、服を過ぎて、緋翔の背中を静かに登っていく。 それは首の奥から、脳の中へと過ぎて。 緋翔は小さく震えると、コクリと唾を飲みこんだ。

「今日は、“一緒に”ミートソース作りたいんだ」

 いいよね?

 そう、耳元で囁く涼の声は、いつもと変わらない。 低くて、優しくて。 撫でるような音。 それは柔らかく、緋翔の思考を奪っていく。 緋翔の背中をぞわりと登っていく冷たさが、じわじわと温度を上げて、緋翔の口から零れた。 熱い息が、涼の肩を掠めて、涼はその熱にうっそりとほほ笑んだ。

 緋翔の中の、知られた恐怖と不安は、とうに赤く染まっていた。

 期待。

 切望。

 その言葉が、記憶の奥の快感を思い起こさせる。

「俺が、ちゃんと、教えてあげるから」

―― だから、ちゃんと、作ろうね。

 それが何とは言わない。

 どことも言わない。

 鉄と、カビと、緑茶の香り。 そこに、甘く香る金木犀。

 それらは静かに混ざり合って、雨粒と一緒に床に落ちていった。

 ポツリ、ポツリと、二人の足元に滲んでシミを作る。

 春の、静かな夜。

 

 涼の腕の中で、アネモネが息を潜めるように咲こうとしていた。

悠生 朔也

こんにちは、綴り手の悠生 朔也(ゆうき さくや)と申します。 日々の中でふと零れ落ちた感情や、 言葉になりきらなかった風景を、ひとつひとつ、そっとすくい上げています。 この場所では、そんな断片たちを形にして作られた物語たちを飾っています。 完成や正解ではなく、ただ「そこに在る」。 その静かな揺らぎを、誰かと分かち合えたら嬉しいです。

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