違和感は、態度よりも香りで伝わった。
緑茶に、強く残るカシスの匂い。 甘くて、どろりとした重たい匂いが、緋翔の脳に広がる。 それは泥の沼のように、ぐちゃりと、粘度の高い感情を滲ませた。
「誰かと、一緒にいた?」
ぽつ、と。 緋翔のこぼした言葉は、小さく涼の足元に落ちた。 赤黒い革靴の側面を撫でて、滲む。
涼は靴を脱ぐと、それを丁寧に揃えて並べた。
「うん。 ゼミの子から相談受けてた。 すぐ落としてくるから、ごめんね」
そういうと、涼は緋翔には触れずにそのまま浴室へと消えていった。 緋翔は一人、ぼんやりと、揃えられた靴を見下ろす。
土もついていない、綺麗な革は、昨日の夜緋翔が磨いたばかりで綺麗だった。 ツヤも、汚れも、見た目には問題がない。
それをそっとつかむと、緋翔は靴箱からお気に入りのクリーナーのセットを取り出した。 馬の毛で作られたブラシで、柔らかくほこりを落とす。
クリームと、柔らかい布で拭いて、革を労わるように、優しく磨いていく。 つややかなその表面に、小さく水滴を付けて磨けば、それはキラリと光って、緋翔の気持ちを落ち着かせた。
「気は、済んだ?」
「うん。 涼も、すっきりした?」
「うん、すっきりした。 緋翔の匂いがしないから、少し物足りないけど」
くすり、と笑って、涼は緋翔の背に腕を回した。 すっぽりと収まるように、緋翔は涼の胸にその顔をうずめる。 吸い込めば、緑茶の香りと、自分と同じボディソープの香りが広がった。 吸って、吐いて、吸って。 安心した緋翔の顔が、ふわりと笑う。
「元通りになったね」
涼はその頭をゆっくりと撫でた。 ピンク色と黒が混ざった、ふわふわとした髪が、涼の骨ばった指の隙間で嬉しそうに揺れる。 少し、毛先が傷んで軋むのも、心地が良かった。
「そろそろ、染めようか。 黒い部分、多くなってきたね」
言えば、緋翔は首を傾げた。 そうだなぁ、とか、どうしようかなぁ、とか。 そう言いながらも、緋翔は涼に髪を染めてもらうのが好きだった。 結局のところ、お約束のように悩んで、お約束の様に嬉しそうに笑って、「じゃあ、明日」と答える。
軋んだ毛先を少しだけ指に絡めて、涼はその額に唇を落とした。
愛しい、アネモネの花は、くすぐったそうに笑う。
「じゃあ、明日、俺買い出し行ってくるね。 いつものブリーチ剤と、ピンクのカラーでいいよね?」
「色は、緋翔の好きな色に変えてもいいよ」
涼の指が、緋翔の頬を流れる。 ゆっくりとその輪郭を確かめるように撫でて、とん、と唇に触れた。 形をなぞって、嬉しそうに上がる口角を撫で、目元に並ぶ黒子を撫でれば、緋翔の目がうっとりと潤んで涼を見つめる。
「じゃあ、ピンクにする。 涼がくれた色だから、オレはそれがいい」
涼の腕の中で、アネモネは咲いた。
その花が、一夜限りで朽ちて、花びらを落とす。
今はまだ、咲いたばかりの、美しい花。
「そっか。 じゃあ明日は、寄り道しないで真直ぐ帰ってくるよ」
ふわりと笑って、涼はその唇に自身の唇を重ねた。 触れるだけの、優しい温度のそれは、ゆっくりと緋翔の頬を赤く染める。
少し濡れた涼の髪から、ぽつりと滴が落ちた。
緋翔の頬から、首を落ち、鎖骨を滑って、グレーのスウェットに吸い込まれていく。 その跡をなぞるように指で触れれば、緋翔はぐい、と涼の体を押した。
「夕ご飯、先! オレ、お腹すいた!」
ぷく、と頬が膨らんで、丸みを帯びたその顔が幼く映る。 涼は少し残念そうに眉を下げて、仕方なくそのままキッチンへと向かった。
鍋には冷めたままのコンソメスープ。 フライパンには、少し焼かれたハンバーグが二つ並んでいた。 出来立てを一緒に。 そんな空気が、涼の頬を緩めさせた。
「味付け、ワインとソースでいい?」
「うん! それがいい!」
カチリと火をつけて、涼が告げれば、すぐさま緋翔が答えた。 少し離れたリビングで、お皿を並べる音がする。
じゅわりと熱が伝って、肉の焼けるいい匂いが部屋に広がっていく。
パチリ、と跳ねた油が、白いシンクにシミを作った。
じわりと広がって、どろりとした油膜が紫に光る。
涼はそれを、すぐにタオルで拭きとった。
それでも、背中に走る嫌な予感は、拭いきる事はできなかった。