教室の窓から見える空では、雲が足早に過ぎていく。 木々の隙間から見えるその奥に、うっすらと暗い雲がゆっくりと顔をのぞかせていた。
涼はその空を、何の感情もなくただ見つめる。 遠くで聞こえる教授の声も、風のように過ぎて消えた。 どうせ聞いたところで知った事ばかりだと、涼はノートに赤い線を真直ぐにひく。
緋翔が、知らない間に、知らない場所に行っていることに気が付いてから、数日。 涼のスマホは常に位置情報アプリが起動している。 見ればほぼ必ず、昼過ぎにその本屋へと向かっていた。
時刻は現在午後の二時。 案の定、緋翔のスマホは涼の大学を過ぎて、カフェの前を通り過ぎて行く。 ピタリと止まったその場所は、あの古本屋だ。
ぐるり、と赤い線を回す。 ぐるぐるとねじれて、巡って進んで、ついにはプツとノートを超えて机に落ちた。 そこに、僅かに赤い点が付く。
それをじっと見つめ、涼は指でこすった。
触れれば冷たく指に伸びて、机の赤は滲んで見えなくなる。 指先を見れば、そこはほのかに赤く染まっていた。
講義が終わるころ、すでに自宅へと場所を映した緋翔からメッセージが入る。
【明日休みだから、今日は、赤が見たいね】
脳裏に、緋翔の赤い唇と、ぬらりと光る舌がよぎる。 涼はそれにコクリと息を飲みこんで、腹の奥に仕舞いこんだ。 吐く息は、冷めたい。
近づいてきた雨雲が、ポツリとアスファルトにシミを作った。
【明日は、少し予定があるから。 また今度】
涼はそう返事を書くと、その足で、緋翔の残り香を辿った。
古本屋に着く頃には雨は本降りになっていた。 コートの肩は色が変わり、肌にまとわりついて重たい。 鞄の中には折り畳み傘が、役目を放棄して寝そべっている。
涼は目の前の木製の扉に手をかける。 カラン、と小さな音と共に開いた扉の先で、店主と思わしき青年が「いらっしゃいませ」と小さく笑みを浮かべた。
涼はそれに柔らかくほほ笑み返すと、さも目的の本があるかのように店内に進む。 紙と印刷の匂い、そこに、微かに緋翔の匂いがあるような気がして、涼は小さく奥歯を噛んだ。 気づかれないようにそっと、店の角に立って本を一つ拾う。
大して興味もない冒険物の本を開けば、仲間が裏切って船を下りたシーンが描かれていた。
視線の端だけで、涼は店員を見る。
グレーの緩いウェーブの髪に、白い肌。 大きめの二重の瞳に、右目の下には黒子が二つ横に並んでいる。 すらりと通った鼻筋と、薄目の唇。
小さめの頭の下から伸びる首は、輪郭に似あわず太くしっかりとしていた。
涼は、その青年に一瞬アネモネが重なった。
全体的に、緋翔に似ている。 顔の全体のパーツも、黒子の位置も、白い肌も、唯一無二のあの花と似ていた。
明らかに違うのは、青年の目の下にひろがるクマと、底知れない、どこか陰鬱な雰囲気だった。
見た目は緋翔なのに、中身は自分のような。 ちぐはぐなはずの空気が、青年の異様な雰囲気として成り立っていた。
涼はそのまま、緋翔が好きそうな本を手に取ると、カウンターに乗せた。
「いらっしゃいませ。 こちら、カバーはいたしますか?」
「いえ、大丈夫です。 失礼ですが、ご兄弟がいらっしゃいますか?」
淡々と、涼はなんてこともないように彼に話しかけた。 青年はといえば、ふとその首をかるくかしげて、それからうっそりと、湿度の高い笑みを浮かべた。
「いえ、いません。 ボク、一人です」
「そうですか。 すみません、知り合いによく似ていたので……」
そう告げれば、青年は「あぁ」と、緋翔によくにた顔で、ひどく低い声で答えた。
「緋翔くんの、お友達ですか?」
―― 気安く言葉にできるような、そんな関係ではない。
その言葉に心でそう呟いて、涼は貼りつけた笑みだけで応えた。 少しの間、二人はじっと相手の目を見る。 視線だけの会話は、互いに貼りついたような笑みのみで、音にはならない。
「同じ」
「え?」
「同じ、匂いがしますね。 あなたとは」
青年はそういうと、袋に入れた本を差し出した。 涼は代金を古びた鉄の皿にのせると、本を鞄に仕舞う。
「あれは、俺のものなので」
答えは、聞かない。
涼が外に出れば、雨は先程よりも強く降り注いでいた。
腹の奥が熱いのに、頭の奥が冷えていく。
涼はそのまま、路地に歩き出した。
濡れた革靴が気持ち悪かった。
コートも、鞄も、全て濡れて、視界も白くかすむ。
その全てが、今の涼には、どうでもよかった。
日が沈み、外灯が灯る。
濡れた影が、ひと際黒く、アスファルトを染めた。