何の連絡もないまま、遅く帰宅した涼の様子は、明らかにおかしかった。
緋翔が抱き着いても、困ったように笑うだけで、抱きしめ返すことはない。 いつものように話しかけても、一拍呼吸をおいて、言葉を選ぶようにして返す。 寝る前、当たり前のようにしていたキスも、ハグも、涼からしてくることは無かった。
ベッドの中で、緋翔は涼に背を向けて、その背中を丸める様にして寝転んだ。 いつもなら、その手が微かに涼の手に触れる様にして眠る。 でも今日は、それが、してはいけないような気がして。
隣で静かな寝息を立てている涼の顔を、見る事もできないままで、緋翔は目を閉じた。
霧の中、緋翔はまた、一人で道に立っていた。
石畳の、一度だけ見たことのある、色の無い道。 外灯もない。 風も無い。 それなのに、霧だけがゆらゆらと揺れて、目の前の世界を灰色に霞ませていた。
道の奥に、誰かがいる気がした。
姿は見えない。 声もしない。
それでも、確かに、そこにいる。
緋翔はまた、一歩、足を踏み出した。
ぬかるみのように重たい足を出して、そして
止めた。
緑茶の匂いがした。
爽やかな、あの匂いだった。
でも、それだけだった。
ふ、と視界が明るんだ気がして、緋翔はゆっくりと目を開いた。
カーテン越しの窓からは、眩しいほどの光が部屋を照らしている。 緋翔はそっと体を起こすと、サイドテーブルの時計に目を向けた。
時刻はすでに昼を過ぎていた。 隣を見れば、当たり前のように涼はそこには居なかった。 ベッドは整っていて、まるで最初からそこには誰も居なかったかのようにそこにある。 毛布だけが微かに緋翔の方に寄っていて、それだけが、僅かに人の気配を残していた。
緋翔はそのまま、自身のスマホを手に取る。
見るのは、いつものメッセージアプリ。
開いてみると、昨日の自分へのメッセージの横に小さく既読の文字が付いている。 でも、それだけだった。 これといったメッセージが、涼から送られては来ていない。
普段なら、朝か昼に、一つはメッセージが届く。 今日のように、何も声を掛けずに出る時ほど、涼は欠かさず緋翔にメッセージを送っていた。 それはただの挨拶の場合もあれば、夕飯の話の場合もある。 意味もないスタンプを緋翔が送って、それに笑うように既読をつけて、そっと、他愛もない返事を返して。
そんな当たり前のやりとりが、今日、途絶えた。
昨日の夜、遅かった理由を聞いた時は、涼が無事に帰ってきてくれた事だけを素直に喜んだ。
大学の階段。 運悪くぶつかって、転がり落ちた。
意識不明のままで、病院へ運ばれて。 検査の結果、問題は無く、帰宅に至った。
涼はそれをすらすらと説明をしていた。 大学の記憶も、自身の名前も、病院での受け答えでは何も問題が無かった。
生活に支障はない。 生きていける。
それでも。
緋翔はスマホの画面をそっと閉じて、小さく息を吐いた。
昨日からの反応を見るに、一部の記憶が無い事は、緋翔でもわかっていた。
それが、どの程度なのか。
自身の事だけを忘れてしまったのか。
それとも、別の部分も、何か変わってしまったのか。
涼はそれを、わかっているのか。
確信の持てないまま、どこか自分の居場所が分からなくなって、緋翔はぎゅっと、自分の肩を抱きしめる。
暖かいはずの陽射しが、今は少し、肌に痛い。
誰も居ない寝室は、いつもより広く感じて。 名前を呼ぼうと思って、でもそれが届かないとわかって。
このままでは自分が消えてしまうような気がした。
確かめる様に抱きしめても、肩は震えるだけで、こたえてはくれない。
頭の中に、二人だけの言葉がよぎる。
―― 明日の夜。
今夜、だ。
涼は、今夜の事を、覚えているのだろうか。
緋翔は、ただその言葉だけをたよりに、そっとまた、ベッドへと寝転んだ。
もし。
もし、約束を忘れていたらどうしようか。
問いただせばいいのか。
それとも、直接連れ出したらいいのか。
もし。
もし、約束だけでなく、“赤”すら、忘れていたら……?
そこまで考えて、緋翔は頭を強く横に振った。
考えてはいけないと、そう思うほどに、頭の中に、昨日の涼の笑顔が浮かぶ。
貼りつけた様な、“普通”の笑顔。
それは、何も無かったような、まっさらな笑顔だった。
瞳の奥に、滲むような赤も、鉄も、なにも無かった。
まるで“当たり前の幸せ”のような。
緋翔の脳裏に、ベラドンナの香りがうっすらと滲む。
―― わかるでしょ?何が普通で、何が一番幸せの形なのか。
そう言って笑う彼女の顔が、目の前で、涼の“普通”の笑顔と重なった。
「っ、ぁ……、ボク」
ボクは、ここにいたら、ダメなのかな。
ぽつ、と、緋翔の大き目から涙が零れ落ちた。 しずかに頬を伝って、淡いグリーンのマクラにシミを作る。 それは止めどなくながれて、止めようとすればするほど、溢れて止まる事はなかった。 ひくり、と喉を鳴らして。 緋翔は声も出さずにその涙が通り過ぎるのを眺めた。
「涼……、涼」
かすれた声だけが、部屋を埋めていく。
窓から差し込む光は、時間を告げるだけで、
そこにいる誰かを気に留める様子もない。
外を走る車の音が、当たり前の日常を押し付ける様に、通り過ぎていった。