「どうぞ」
そう言うと、榛 鳳花は緋翔の前にマグカップを差し出した。 真っ白なカップの中から、ふわりと湯気が広がる。 やわらかい苺の香りが、緋翔の頬を僅かに緩ませた。
「あり、がとう……」
「いいえ。 確か、好き、だったよね? ストロベリーティー」
ふふ、と柔らかな笑みを浮かべながら、鳳花は緋翔の目の前に座った。 ザリ、と畳みの擦れる音が響く。 がらん、と。 何もない部屋の奥で、青白い光を湛えた水槽がコポリと音を鳴らした。
緋翔はその音に耳を傾けながら、コクリと頷く。
ゆっくりと液体を飲みこめば、暖かな紅茶は、緋翔の緊張を撫でる様に溶かしていった。
あの場所から。
しばらくぼんやりとしたまま、ゆるくつかまれた袖に誘われるままに、緋翔は鳳花のアパートへと来た。 まばらにしか置かれていない外灯がチカチカと点滅し、夜の道に人はいない。 草木が生い茂り、管理もされていないような建物は、どこもサビと苔に塗れていた。
鳳花はその一番端の扉に鍵を差し込むと、そっと扉を開く。 ギィ、と軋む音がして、緋翔はようやく、視線を鳳花へと向けた。
自分とよく似た顔が、静かに笑う。 目元が柔らかに弧を描いて、端だけが少しあがった口。
途端、ジワリと視界が滲んで。
緋翔はそれを誤魔化すように、部屋へと足を進めた。 すれて薄くなったフローリングは歩く度にたわみ、年期の入ったキッチンはひどく寒い。 きちんと片づけられた食器や調味料の棚。 その奥に、枯れた白いバラを見て、緋翔はコクリと喉を鳴らした。
―― 頭の奥で、彼が笑って。
そして、ガラリと崩れていった。
「……気に入ってくれた?」
黒いハイネックから伸びた長い首が、少しだけ横に傾く。 青白い肌の上に、灰色の髪が揺れた。
表情は柔らかいのに、その目の奥に深い黒が滲んでいる。 緋翔はそれに、何故か体が落ち着くように感じて。 コクリ、と小さく頷いた。
水槽が、コポリと音を鳴らす。
「そっか。 それなら、用意した甲斐があったね」
「……、うん。 楽し、かった」
「ふふ。 ……君は、そうでなくちゃ、ね」
その声が、やけに優しくて。 緋翔はまた、目の奥が熱くなるのを感じた。 ゆるやかに視界が滲んで、ポツ、と黒いズボンにシミを作る。 一度流れたそれは、緋翔が息をする度に、頬を滑り落ちていった。
鳳花はそれにただ口元だけで笑うと、そっと緋翔の髪に手を伸ばす。 ゆるやかに毛先だけに触れて、それから、頭の形を確かめる様に撫でた。
時折カサついた爪が髪にひっかかり、小さく引っ張られる。 それでも、緋翔はその掌に自身の頭を預けた。
ぽつぽつと、言えないままだった思いが口から零れていく。
「涼が、他人みたいだった。 普通に、笑うんだ……」
ひくり、と肩が震える。 両手で顔を覆って、涙をその袖に染み込ませて、緋翔は嗚咽を漏らした。 鳳花はそれをただ黙って聞きながら、その頭を撫で続ける。 ピンクの髪は、出会った頃よりも僅かに色が薄くなって、根元は黒くなっていた。
「……言ってごらん」
その静かな声に、緋翔は一度唇を噛みしめる。 ぽん、ぽん、と。 軽やかな手の重みが頭に触れて。 緋翔はそれに促されるまま、掠れた声で話しだした。
「誰かの幸せみたいに、笑うんだ」
「触れたら同じ体温なのに」
「涼の匂いがするはずなのに……」
―― そのどれもに赤が滲まない。
その事実が、自分の居場所を否定しているようで。
緋翔はぐっと、息を飲みこんだ。 頭の奥のベラドンナが、嬉しそうに微笑む。
“ほら。 貴方には彼を幸せにできない。”
その声が、すぐ近くで響いた気がして、緋翔は頭を強く横に振った。 パサパサと、毛先の傷んだ髪が乱れる。 鳳花はそれを整える様に撫でると、ただ小さく「そっか」とだけ答えた。
しばらくそうして。 緋翔の呼吸が落ち着いた頃。
赤く腫れた目が、そっと、鳳花を見上げた。
「ボク、は。 もう、要らないのかな……」
その声に、鳳花は一瞬眉を寄せるだけで、何も答えなかった。
緋翔のその言葉が誰に向けたものなのか。 わかっているようだった。
答えない代わりに、その顔をそっと撫でて。 鳳花はただ、彼の身体を抱きしめた。
そうして、静かに声を落とす。
「ねぇ緋翔。 君が望むなら、いつまでもここに居ていいよ」
深い、海の底のような声が、緋翔を包んだ。
緋翔はそれに、静かに目を閉じる。
落ち着かせるように背中を撫でる指。
包み込む熱。
聞こえる鼓動。
そのどれもが、涼とは違うのに。
微かに感じる鉄の匂いだけが同じで。
緋翔は鳳花の背に、そっと腕を回した。
部屋の隅で、コポリと、水槽が音を鳴らした。