私には昔から、
言葉や音に“深度”を見てしまう癖がある。
軽いものは、耳の奥に入る事もなく流れて消えて、
重いものは、胸の底に沈んでいく。
その沈み方で、感情の本気度を見てしまう。
音楽もそう。
メロディだけでなく、空気の揺れ方とか、
声が落ちていく角度とか、空白とか、
隙間のノイズのほうが気になってしまう。
いわゆる名曲じゃなくても、
ひとつだけ妙に深く刺さる音があれば、それで十分だった。
映画も、小説も、同じように“表面的な深さ”じゃ物足りない。
表情や風景の沈黙に、物語が潜んでいるほうが、
私は安心する。
こんな選び方をしているからか、
私の文章にも、知らず知らずの癖が出ているらしい。
言葉がまっすぐ過ぎると浅く感じてしまうから、
少し斜めに置いてしまうし、
余白に逃げ道を作らないと、
息が詰まってしまう。
親友にはそれが
「何を言っているのかわからない」と映るらしい。
抽象的だと、答えが浮いていて安心できないという。
親友は「感情」が先らしい。
「好き」「嫌い」から始まって、それをそのまま素直に受け取れる。
逆に、私はそれが出来ない。
「好き」「嫌い」は、最後にくる。
「構造」や「意味」を深堀して、初めて「好き」「嫌い」が決まる。
面白いのは、お互いに、「好み」が似ている事。
ただ、必ずといっていいほど、「最後に分岐して別の場所に着地」する。
道の途中までは全く同じ。
ゴールが、分岐する。
それが、お互いの理解に繋がっていて、互いに寄り添うことに繋がっている。
真逆のアプローチをするからこそ、理解の幅が広がる。
ちなみに私は【INTJ】で、
親友は【ISFP】。
一般的には、どうやら私のほうがマイナーらしい。
抽象的に、感情の捉え方を読み手に任せるような、余白や風景をメインにした表現を好んで使う。
どことなく、湿度が高い。
見えない湖の底。
カビ臭くて、陰鬱としていて、人間らしさが見えるようなもの。
そういうものが、好き。
たぶん、こういう癖が、
私が他人から少し理解されにくい理由の根っこにある。
でも、だからこそ、理解出来る人に刺さってくれたら、嬉しいと思う。
万人には向いていないかも知れない。
小説の定番ではないかも知れない。
それでも、私は今のスタイルでいたいと思う。
深いところでしか息が出来ない人の、休憩所のような場所になれたらいいと思う。