物語の額縁 静脈に咲く花

痛みのローズマリー 《前編》

「みてみて、涼!すっげぇ~!!」

 緋翔はそう叫ぶと、バタバタとその両腕を揺らした。

 オーバーサイズの薄い灰色のカーディガンが、その度にふわふわとその腕を滑る。 真っ白のTシャツから伸びる長い首には、ピンク色の、緋翔の色がゆるやかに踊って、秋の陽射しを浴びてキラキラと光っていた。

 緋翔は白い砂浜の上を、その足を縺れさせながら、寄せては返す、その波打ち際まで走ると、「おおー」と感嘆の声を上げる。

 見渡す限りの空と、海と、太陽の光。

 年齢よりもずっと幼い顔で笑う緋翔の背中を見守りながら、涼は一人、静かに微笑んだ。

 「海が見たい」

 そう緋翔が唐突にこぼしたのは、大学の長期休暇も過ぎた、秋のある夜だった。 その日は講義が少し長引き、涼は帰宅の時間が少し遅くなった日だった。

 きっちりと用意された夕飯の湯気の向こうで、緋翔はその頬を薄いピンクに染めて、その大きな目を涼に向ける。

 恐らく、映画か何かを見たのだろう、と涼は思い至る。

「別にいいけど、行けるとしても…日帰りか、一泊二日になっちゃうよ?」

 目の前に置かれたオムライスにスプーンを刺す。 柔らかく、綺麗な半熟の黄色い皮膚の隙間から、小さなエビの入ったバターライスが覗く。 先程緋翔が描いたケチャップの猫の髭部分を少しその先に付けて、口に運んだ。

 鼻の奥をバターの香ばしい香りと、ケチャップの酸味が広がる。 卵は口の中でとろけて、舌を柔らかく撫でて滑り落ちるように、喉を通っていった。

 小さく「おいしい」とこぼせば、緋翔は嬉しそうに笑う。

「いつ? 明日?」

日付に対して興味のない緋翔は、無邪気にそういうと、目線だけ壁にかかった、数字だけが並んだシンプルなカレンダーに目を向けた。

見ながら、肘を開いて、少し猫背になりながら、スプーンをその口に運ぶ。 小さな口の中に、たっぷりのオムライスを一気にふくんで、その頬はハムスターの様に膨らんでもごもごと動いていた。 口の端にはしっかりとケチャップの足跡を残し、まだ飲みこみ終わらないままに、次のスプーンがその口に運ばれる。

 涼はその一連の動きを愛おしそうに眺めながら、ゆっくりと次のスプーンを口に運んだ。

「そうだね、ホテル予約するなら……再来週末。 日帰りなら、明後日。 どっちがいい?」

 その問いかけに、緋翔が選んだのは“日帰り”の旅行だった。 とにかく、今、見たい。 そんな顔で前のめりに言われて、涼はオムライスを飲みこみながら頷いた。

 食事の合間に、スマホに指を走らせて、涼は最寄の海へのルートを調べる。 ただの海、よりは、人気のない、景色の良い場所を、なんとなく選ぶ。

 するすると、あそこでもない、そこでもない、と、視線に映るどの海も、どこか明るすぎて、結局行き場所が決まったのは食事を終えて、まったりとソファに二人で座っている時だった。

「ここなんて、どう?」

 涼の肩に頭を預けた緋翔は、もうすでにどこか眠そうにしていた。 大きな両目の瞼が半分落ちかけて、その頬にまつ毛の影が流れる。 一瞬、言葉の意味を考えて、ハタと思い当たるように目を開くと、緋翔は涼のスマホを覗き込んだ。

 そこには、見渡す限りの水平線。 沈んでいく夕日に照らされた海面に揺れる光が切り取られた、静かな光の、海があった。

「絶対ここがいい!」

 満面の笑顔で答えた緋翔の行動は、早かった。

 その日の夜に必要な物を涼がメモを作り、その翌日には全ての物が用意され、その翌日には、しっかりと二人分のリュックが用意されていた。

 前日の夜は、早めに寝ると言って、緋翔は涼の腕を引っ張ると、ベッドに押し込んだ。 二人ならんで、まだはっきりとした意識の中、緋翔がそっと涼の腕を掴んだ。

 それは僅かに。 ゆるりと、撫でるような力で、指の先でただ撫でるような。 何かを告げて、それを惑うように、そっと離れた。

 涼は何も言わず、ただ目を閉じて、その手を掴んだ。 指を絡めて、包むだけ。

 真っ暗な部屋に、少し落ち着いたような、緋翔の声を聞きながら、涼はゆるやかに眠りに落ちて行った。

 翌朝、緋翔はいつもの調子ではしゃぎながら、リュックを車の後部座席に投げ入れた。 手元には、お気に入りのグミの袋と、ガム。 そして、グリーンとピンクのタンブラー。

 ピンクは緋翔のベリーティー。 グリーンには涼のコーヒーが入っている。 これは涼が目を覚ました時には、すでに緋翔によって用意されていた。

 コンビニや、途中のサービスエリアで買えばいいのに、とも思ったが、恐らく緋翔はその事を知らなかったのだろう。 意気揚々と、「用意しておいた!」と笑った顔に、涼はただ、「ありがとう」とだけ返した。

「飲みたくなったら言ってね! 俺が渡すから」

 涼がシートベルトを締めると、緋翔はそう言って、グリーンのタンブラーを自分側のドリンクホルダーに追いた。 そのまま片手でシートベルトを締めると、ピンクのタンブラーを自身の足の間に挟み、満足そうに笑う。

 どうやら、ドリンクは自己申告制らしい。 緋翔にとって、車の中での飲み物は“自己申告制”で止まっているのかもしれない。 そう思えば、涼は、緋翔の過去について、詳しく聞いた事は無かった。

「じゃあ、しゅっぱーつ!」

 元気にそう声をあげた緋翔の顔は、いつもと同じように、大きく笑っていた。

悠生 朔也

こんにちは、綴り手の悠生 朔也(ゆうき さくや)と申します。 日々の中でふと零れ落ちた感情や、 言葉になりきらなかった風景を、ひとつひとつ、そっとすくい上げています。 この場所では、そんな断片たちを形にして作られた物語たちを飾っています。 完成や正解ではなく、ただ「そこに在る」。 その静かな揺らぎを、誰かと分かち合えたら嬉しいです。

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