物語の額縁 静脈に咲く花

透明なベラドンナ

 翌朝、涼は緋翔の寝顔を見つめながら、内側からふつふつと湧き上がる感情に、ただ黙った。

 緋翔はベッドの上で、まだ静かに寝息を立てている。

 もうすぐ朝食の時間。 いつもなら、涼よりも早く起きている事が多いのに、その目が開く気配は無さそうだった。

 少し赤くなった目元をそっと撫でて、涼は小さく息を吐いた。

 昨日、何があったかはなんとなく検討が付いていた。 大学の講義に、莉子が居なかった。 スマホを開けば、緋翔の位置情報は、いつも通っているスーパー付近の喫茶店にあり、それは数時間ずっと動くことは無かったから。

 何をどう言われたのか。

 そこまでは分からなかったが、それでも、緋翔が自分の事を「ボク」と呼んだ時点で、涼の手は震えて冷たくなるようだった。

 大切に育て上げたアネモネの花が、へし折られたような感覚。

 葉を蝕む害虫は、その花の全てを腐らせる。

 花弁は落ち、葉は崩れ、濁った水は腐臭をまき散らし、涼の心臓を貫いた。

 涼は、そっと気づかれないようにベッドから立ち上がると、静かに台所へと向かった。

 昨日はサンドイッチとスクランブルエッグと、コーヒー。

 今日はもう少し食べやすく、スープと小さめのロールパンにしよう。

 あの調子の緋翔が、少しでも食べやすいように。

 涼が朝食を用意し終えても、緋翔は起きては来なかった。 コト、と出来たばかりのスープをテーブルに乗せて、寝室へと向かう。

 ベッドの上では、小さな毛布で出来た山が、小さく震えていた。

「緋翔」

 少し低めの、優しい声。

 毛布の隙間から、緋翔はチラリと涼を覗いた。 潤んだ瞳の奥に、不安が滲んでいる。 涼はそのまま隣に座ると、その身体を抱きしめた。

「朝ごはん、作ったから。 一緒に食べてほしいんだ」

 ―― お願い。

 そう告げれば、緋翔はゆっくりとその手を涼の腕に重ねた。 小刻みに震える冷たくなった手が、小さくシワを作る。

 そっとその手を取って引っ張れば、緋翔は視線を不安定に揺らしたまま、それでも涼の後ろをついて歩いた。 ペタ、と、僅かな足音が、涼の心を少し落ち着かせた。

 食事中は、とくに話もしなかった。

 緋翔がスープを冷ましながら飲んで、涼はそれをゆっくりと見つめながらパンを食べる。 豆乳で作ったラテの湯気が、二人の間に揺れていた。

 

 涼が身支度を整えて玄関に向かうと、緋翔がその腕をそっとつかんだ。 なに?と笑顔を浮かべて、涼が見つめる。 緋翔は、何度かその視線を動かした後、小さな声で、「ごめんなさい」とこぼした。

 それが、何についてなのか。

 誰に対してなのか。

 涼にとって、それは問題ではなかった。

「大丈夫だよ。 帰ったら、今日は映画でも見よう。 緋翔のオススメ、探しておいてくれる?」

 それから額に軽く唇を寄せて、淡い肌色の混じったピンクの髪の毛を撫でた。 今は、もう緋翔の匂いしかしない。

「わかった。 夕ご飯は、デリバリーでもいい?」

「ん、いいよ。 帰って、一緒に選ぼう」

 涼がそういって笑えば、緋翔は僅かにその頬を緩ませる。 壊れかけたアネモネの花が、僅かに開いたような気がした。

 涼は大学の講義の間、ただずっと、ノートを見つめていた。

 何を書くでもなく、何を描くでもなく、何もないままに、じっとその真っ白い紙を見つめる。

 脳裏では、ベラドンナの花が静かにその花びらを散らしている。

 ゆるやかに、やわらかに、赤い沼地に沈むようにこぼれて、音もなく崩れていく。

 その日、莉子は涼のもとには来なかった。

 彼女はわかっていた。 自身の撒いた毒は、ゆるやかに馴染む事を。

 だから、急ぐ必要はないと。

 涼は、その花をただゆっくりと眺めていた。

 触れる事もない。

 愛でる事もない。

 話しかけることもない。

 自らの毒で、その身が朽ちて、ただなくなる様を、ただ、観察する。

 手出しはしない。

 作りもしない。

 色も、形も、与えるつもりもない。

 ただ、赦しはしない。

 涼はふ、と口の端を静かに揺らすと、そのノートを閉じる。

 同時に、チャイムが終業を知らせた。

 がやがやと人の動く音に紛れるように、涼はそっと校外へと向かった。

 人の気配が無い、やけに騒がしい街の路地裏は、まだ明るい時間でも鬱蒼としていて暗かった。 肌を撫でる空気も、どこか腐敗していて、湿っている。

 一歩足を踏み入れれば、どこかの店から流れ出た水たまりが、靴の上に跳ねた。

 ゴウン、ゴウンとなる室外機と、タバコの匂い。

 その奥から、微かに甘ったるい匂いが滲んでいる。

 涼は、そっとそこを眺めていた。

 数人の男たちが、何か話すでもなく、タバコをふかしている。 年齢もまちまちで、下は十代、上は五十代とも見える。 共通して言える事は、彼らが「まともな世界の人間」ではないという事だった。

 やけに高そうなスーツの男が、一番若い男に何かを渡し、若い男はそれをさっさとポケットに仕舞うと、またタバコをふかす。

 涼はそれに、ふわりと笑って、その場を後にした。

 予定通り。 いつも通り。 ワンパターンに、場所も時間も、同じ。

 スマホを開く。

 同時に、ピコンと小さな音が鳴った。

【かみそめるやつ、どこかにおいてきちゃった】

【ごめん】

 緋翔からのメッセージに、涼は少しだけ、息を吐いた。

 彼はまだ、髪を染めようとしている。

 たった、その一つの真実だけで、満たされたような気がした。

【買って帰るよ。 今日にする?】

【明日にする。 今日は、映画みる】

 街はやけに賑やかだった。

 人の波を抜けて、静かな路地を抜けて、いつものスーパーに向かう。

 この前買ったのと、同じ色。

 二つの箱を持って、レジに向かう。

 時刻は午後の三時過ぎ。

「たまには、いいか」

 午後の講義は、今日は休もう。

 そう一人呟いて、涼は真直ぐにマンションへと向かった。

 枯れかけた花なら、また咲かせばいい。

 折れたなら、支えてあげればいい。

 毒を飲んだなら、吸いあげて。

 新しく水を与えればいい。

まだ、死んでいないから。

 

午後の陽射しの中、木々は色鮮やかに揺れ、鳥がその空を翔けていく。

見上げた空は、雲一つない。

遠くのほうから、僅かに夕焼けが覗いている。

静かに、確かに、その空を赤く染めるのを待っているようだった。

悠生 朔也

こんにちは、綴り手の悠生 朔也(ゆうき さくや)と申します。 日々の中でふと零れ落ちた感情や、 言葉になりきらなかった風景を、ひとつひとつ、そっとすくい上げています。 この場所では、そんな断片たちを形にして作られた物語たちを飾っています。 完成や正解ではなく、ただ「そこに在る」。 その静かな揺らぎを、誰かと分かち合えたら嬉しいです。

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