※こちらの作品は、男性同士の恋愛を含んでいます。 また、静けさの奥に潜む痛みに触れる物語です。誰かの輪郭が、過去の陰によって形作られているかもしれません。 読まれる方の心が穏やかである時にそっとお開き下さい。
触れる手が、怖かった。
それは冷たく、硬く、見たこともない虫のようだった。
ゆっくりと、じわじわと這うその指先は、肌の上を撫でるたびに、何かを削ぎ落としていく。
感情か、理性か、感覚か、あるいは――記憶か。
柔らかく、けれど鈍く、痛い。
舌の奥に金属の味が広がったのは、恐怖か、それとも唇の内側に赤が滲んだせいか。
どちらでもよかった。 ただ、動けなかった。 声も出せなかった。
部屋の中は夜の匂いが濃く、カーテンの隙間から入る街灯の明かりさえ、どこか濁って見えた。
その濁りの中で、あの男は笑っていた。
下品で、何も知らない無邪気のように、ただ欲望だけで笑っていた。
黒い笑み。 熱のこもる嘲り。 ベッドが軋む度に、頭の奥で糸が切れていく。
闇に塗りつぶされた顔が、口を開く。
言葉の傷みを理解するより先に、心が噴出して溢れていった。
コプリ
吹き出す音が、体の中から響いて気持ちが悪かった。
息を吸っても、肺に何も入ってこない。
枯れたのは、声か、心か、それともその両方だったのだろうか。
ベッドのシーツが、汗と何かで湿っているのに、それすら現実感がなかった。
腫れた頬に触れてみる。 手はあった。
感覚もある。 けれど、そこには体温がない。
熱を持っているはずの皮膚が、異様なほど冷たく感じる。
まるで、自分の体から自分だけが抜け落ちたようだった。
染まっていく。
黒く、白く。
色があったはずの世界に、静かにモノクロが浸食していく。
赤は黒に、青は灰色に、肌色は血のような白に。
自分の部屋だったはずなのに、壁も、天井も、ベッドも、まるで別の場所のように遠かった。
知らない誰かの物語の中に、閉じ込められたような感覚。
何もかもが、どこか他人事だった。
自分の身体ですら。
いつからこんなふうになったのか。
最初の夜のことを思い出そうとするたび、目の奥に鈍い痛みが走った。
記憶は切り取られ、ぼやけ、歪んでいる。
父、母、そして笑顔の男の子。
目元が真っ黒な線でぐしゃぐしゃにされて、思い出せない。
笑顔の男の子には、自分と同じ黒子のあと。
幸せそうに二人の手をつないで、パステルカラーの暖かな絵画。
ぽたり、ぽたりと黒が落ちて、記憶は閉じていく。
遠くで誰かが叫んでる。
バタンと閉じられた空間に、カーテンがひらりとなびいて落ちた。
何も感じない。 涙ももう出ない。 声も、叫びも、黒く塗り替えられた。
閉じた物語に、夜が沈み、朝が来る。
世界は止まってはくれない。
皮肉にも、規則正しく。 誰かの救いに、誰かの絶望に寄り添うように。
緋翔は誰もいなくなったベッドで、薄く息を吐いた。
浅く、肺の表面だけで、そっと逃がすように。
カーテン越しに差し込む朝の光は、どこか冷たかった。
温度を持たない、白だけの光。
キラキラと反射する小さなホコリが舞っている。
暗い部屋に、ゆるやかに光が伸びる。
赤く滲む肌に触れても、何も。
熱は……感じなかった。
今日もまた、日が昇る。
昨日と同じように。
何も変わらず、何も終わらず、ただ延々と。
失った物語に、色が戻ることは、なかった。