※こちらの作品は、男性同士の恋愛を含んでいます。 また、静けさの奥に潜む痛みに触れる物語です。誰かの輪郭が、過去の陰によって形作られているかもしれません。 読まれる方の心が穏やかである時にそっとお開き下さい。
――朝の光は、やけに白かった。
低層マンションの一室。 遮光カーテンの隙間からこぼれる陽射しが、部屋の角を静かに照らしていた。
風がぬるく吹き抜ける。 カーテンがふくらみ、ベランダに干されたシャツの裾がかすかに揺れた。 ほのかに甘い香りが肌をなでる。
テーブルにはふたり分の朝食。
トーストにバター、スクランブルエッグ。 少し濃いめのコーヒー。 そして、深紅のベリージャム。
「今日はいい天気だね」
緋翔(はると)が言った。 声は軽く、どこか機嫌が良さそうだった。
ピンク色の髪が朝日に透けて、頬まであたたかく映っている。 まだ幼さの残るその顔に、甘い風が色をのせた。
「うん。春らしくて、心地良いね」
涼(りょう)はコーヒーを一口。 苦味の中にある温度を、舌でゆっくり溶かした。 コーヒー色のその髪が、サラサラと揺れて、その端正な顔立ちをどこか冷たくもうつしている。 コクリと飲みこみ、彼は目の前の青年の手元に視線をうつした。
緋翔はトーストにジャムを塗りかけて、
「あ」と小さく声を漏らした。
親指の付け根に赤い一滴。 指から垂れたそれが、彼の白い肌に際立つ。
「またついちゃった」
笑って、右手を口元へ。 小さく舌を伸ばして、第二関節のあたりまでをぬるりと舐めとった。
その仕草に、涼はスプーンを持ったまま、わずかに目を細める。
隠すようでもあり、味わうようでもあるその視線を、緋翔は一瞬だけ感じ取ると、ふわりと笑った。 鼻の奥に、ベリーの香りがにおい立つ。
「ねえ……例のさ、シャツ」
緋翔は言った。
「シミが全然落ちなくてさ。 漂白剤でもダメだった」
「乾いちゃってたんだろ」
涼はすぐに応じた。 また一口、コーヒを含む。 柔らかな苦みが広がって、心地が良い。
「それに、繊維の奥まで染み込んでたなら、無理だ。 染め直すしかない」
「染め直すか……なるほど」
緋翔は少し考えてから、手にしたナイフでジャムをもうひと塗り。 ぺちゃり。 トーストの端が赤く染まりすぎて、パンの輪郭が崩れていた。 あ、と大きく口を開くと、舌先のぬめりがジャムに触れる。
何気ないふりをして、それを一口。
「ねえ、涼も食べる?」
ナイフを差し出しながら、無邪気にそう訊いた。
涼は笑った。 カップを置いて、静かに首を振る。
「俺はいいよ。 ……緋翔のなら、大歓迎だけどね」
その言葉に、緋翔の動きがわずかに止まった。
一瞬だけ驚いたようにまばたきして、それから小さく笑う。 光が半分を照らして、やわらかなその頬が色づいていく。 ゆるりと、口角が上がり、眩しそうに細められた目が弧を描いた。
「……じゃあ、あとでね」
窓の外で風が鳴った。
さっきまで優しかった空気が、ほんの少しざらつく。 カーテンが大きく膨らんで、レース越しに青空の断片がちらついた。 春の乾いた風が、湿度をまとって部屋に落ちていく。
「閉めていい?」と緋翔が訊いた。
涼は頷く。
緋翔が立ち上がって窓を引き寄せると、風の音がふっと途切れて、部屋の光が薄く鈍った。
静かだ。 どこにも何も、咎めるものなどない。 部屋に満ちる、深紅の甘い香り。
閉じたガラスの向こう――空の端に、灰色の雲がひとすじ、糸のように伸びていた。
まるで夜の指先が、朝にそっと触れようとしているみたいに。
そのときふたりは、何も言わなかった。
けれど涼は知っていた。 夜になれば、緋翔の指はもっと鮮やかに染まることを。
そして緋翔もまた、知っていた。
その色こそが、涼のいちばん愛しい色であることを。
白はゆっくりと落ちていく。 まるでこれが、何事でもないかのように、うっそりと二人の頬を赤く照らした。