※こちらの作品は、男性同士の恋愛を含んでいます。 また、静けさの奥に潜む痛みに触れる物語です。誰かの輪郭が、過去の陰によって形作られているかもしれません。 読まれる方の心が穏やかである時にそっとお開き下さい。
静かに扉は閉じられた。
鉄の軋む音は、先程までの“絵”を飲み込んで、静寂と赤をにじませながら保管された。 鑑賞者のいないそのギャラリーは、沈黙したまま日常に溶けて沈んでいく。
時刻はすでに真夜中と呼べる頃合いだ。 湿った路地のコンクリートが、二人の足跡を拭っていく。 外灯もない道。 建物の間を通る風が、そっと二人の肌をなでていった。 見上げても星は無く、灰色の雲がそれを覆っている。 ゴミ袋の隙間から、猫がするりと姿を現して消えていった。
路地裏を抜ける少し前で、涼はぽつりと声をこぼす。
「ラーメン、行く?」
外灯がちらほらと佇み、二人の影を薄く作った。 それはゆるやかに伸びては縮み、彼らの後を追いかけていく。 軽やかなピンクの髪は、まだ少し湿っていて僅かに暗い赤。 ガシガシとその頭をタオルで拭きながら、緋翔は「ふは」と笑った。 遠くで誰かが窓を開く音がする。 静かなアスファルトの上を、一台のタクシーが通り過ぎて行った。
「マジで? 珍しいね、涼がそんなこと言うの」
そう言いながら涼を見れば、その薄いブラウンの目がじっとりと濡れて緋翔を映している。 ゆるやかに口角があがり、「今日は、すごく、お腹がすいちゃったんだよね」と低い声がささやいた。
鼓膜を優しく震わすようなその声に、緋翔から僅かに甘い息が零れてしまう。 空腹の原因がなにか、言葉よりも音で理解して、吐く息が僅かに空気の温度を上げた。
「……、じゃ、食べに行く? 食べて、早く帰ろ」
ニカ、と歯を見せて笑う緋翔に、涼は同じ温度で笑みをかえした。 先程まで妖艶な笑みを浮かべていたその顔は、今は幼くも見える。 小柄な彼の、表の顔。 人懐こくて、誰にでも笑顔を向ける。 太陽のように屈託のない笑顔。 彼が「イイ人」だと、きっと誰もが思うだろう。 実際、緋翔は人によく好かれる。 ただ、彼には友人は居ない。 そのスマホに登録されているのは、涼の名前のみだった。 十センチ程低い位置にあるピンクの頭を、涼は慈しむようにみつめる。
月と外灯に照らされた白い肌。 その首筋には拭き残した赤がわずかにちらついていた。 スマホで店を調べているその顔に、そっと近づく。 ピンクのふわりとした髪と、首の隙間から、鉄の匂いがわずかに香った。 緋翔が「え」とこぼすと同時に、涼はその赤を舌でなぞる。 甘い香りと鉄の匂いが口の中に広がった。
「ちょっと、残ってた」
「……、ラーメン、行くんじゃなかったの?」
「ふふ、行くよ。 調べてくれたんでしょ?」
む、と口をとがらせるが、緋翔は肩をすくめてひとつ息をこぼした。 スマホの明かりが、頬をぼんやりと照らしていた。 満足そうに微笑むと、涼はそっと、彼の左手を握る。 指と指をやわらかく絡ませれば、ゆるやかに返してくる。 緋翔の僅かに高い体温が、涼の手に伝わって混ざっていった。
「ね、さっきの、“赤”、良かったよね」
緋翔が嬉しそうに言うと、涼は頷いた。
「うん。 ……すごく、綺麗だった」
まるで、買ったばかりの服の話をしているみたいに。 二人の足音は軽やかに道を彩っていく。 路地を抜けて、コンビニを過ぎれば、柔らかな赤い提灯の明かりが遠くで手招きをしていた。
「また、作ろう」
手をつないだまま、涼と緋翔はそのまま歩き出す。
誰にも知られず、誰にも触れられない、二人だけの夜の中へ。
……世界が眠っている間に、
今日もまた、誰にも見えない“傑作”が、世界に仕掛けた一滴を滲ませていた。