感情の全てが、言葉にならなくてもいい。
あなたが感じた事が正しさであっていいと、私は思う。
綴り手の独白。
最近、「わかりやすい文章が良い」と言われることが増えているように感じる。
たしかに、明確でシンプルな言葉には安心感があるし、受け取ってもらいやすいのは事実。
それに、仕事や作業において、「わかりやすさ」は重要だと思う。
でも、わかりやすいことが、必ずしも“やさしさ”につながるとは限らないなと、私は思っている。
私の書く文章には、説明のない部分がけっこうある。
言葉にしないことで、読者の感じ方にゆだねるような形。 たとえば、文章の途中にぽつんと置いた空白や、言い切らない感情。 抽象的な表現や、比喩。
それは、“言いたいことがない”のではなく、“感じる余地を残したい”からそうしている。
おなじ空を見上げても、見る人によって匂いも温度も違う。 それを「晴れ」「暑い」とだけ事実を告げるのは、果たして「正解」なのだろうか。
寒いと思う人がいて、暑いと思う人も居て、同じ気温、同じ場所でも、感じ方は違う。 そしてそのどれもが、その人にとって正しい。
たとえば、絵画の見方。
作品には作者の意図や背景があるかもしれない。
評論家の言うように、「この絵はこういうもの」とい答えがあるのかも知れない。
けれど、「これが正解です」と示されなくてもいいと思っている。
見る人が、絵の色や構図、光の具合から自由に感じたこと
――それが、その人にとっての本当の答えだと思う。
同じ絵でも、誰かには懐かしさがあり、誰かには不安がある。 それは全部、間違いじゃなくて「その人の感覚」で見る美しさ。
赤を血ととる人もいれば、情熱とみる人も、怒りと捉える人もいる。 白は果たして純粋だけだろうか? 狂気や、冷たさ、消えていく恐怖にも見える。
そのどれもが、見る人に委ねられることが、その人を否定しない“やさしさ”になるのではないか。
文章にも、そういう余白があっていいと思う。
歌の歌詞に心が揺れる様に、小説や物語にも、そういう「答え」を書かないことで、世界が広がるのではないかと。
私は、読者が“自分の感覚で読む”余地を残したい。
この後の物語を想像したり、キャラに投影したり、思い出を重ねたり……
物語の余白に、匂いや温度、感触や音、味が、それぞれの感情で彩られていく。
「この物語の正解」を決めてしまったら、その余地が失われてしまう。
正解より、「あなたの感じた事」が大切だと思うから。
それが、私の文章に込めた、静かなこだわり。
私の書いた物語が、読んでくださった方の五感に浸透して、やっと完成する。
私はこれからも「未完成の物語」を書いていこうと思います。