「わ、芋虫のフィギュアだって、気持ち悪い」
先日、なんとなく立ち寄ったガチャガチャコーナーでの、ある母親の一言。
男の子と、お父さんと、お母さんの三人で来ているようだった。
男の子は、芋虫や、爬虫類、生き物のフィギュアに夢中で
「これやりたい」と、楽しそうにしていた。
その、矢先に先程の言葉が聞こえてきた。
「気持ち悪い」
私は、親が子供にそう伝える事は、とても危険な行為だと思う。
男の子は純粋に、虫や爬虫類を、肯定的な存在として捉えていたかも知れない。
それなのに、自分の価値観だけで「気持ち悪い」と、否定する。
それって、一種の刷り込みなのではないだろうか。
苦手はあっていい。 私も、通称Gと呼ばれる虫は苦手だ。 絶対に殺す。 なにがなんでも殺す。 いわば、Gジェノサイダーとでも呼べばいいだろうか。
しかし、虫は基本的に【美しい】と思う。 神秘的だとも思う。 造形、成長過程、どれをとっても、奇跡だと思う。
男の子も、そう思ったかもしれない。
「かっこいい」「かわいい」「きれい」「すごい」
そんな男の子の気持ちを、たったの一言で否定したのが、残念なことにその母親だった。
これは、その子の価値感を否定することになる。 もっと簡単に例えるなら
「黒なんてやめなさい。 暗くて不気味じゃない」
「女の子が黒のランドセルなんてやめなさい」
「男の子なんだからピンクなんておかしい」
そんな事を、まだ成長過程である、一番純粋にいろんなものを体験できる時に言われたらどうだろうか?
「この価値観は気持ち悪い」⇒「自分は間違っている」
そうやって、自分の純粋な価値観を否定してしまうのではないだろうか?
もしかしたら、たったのその一言で、一生の傷がつくかもしれない。
最悪なのは、その先だ。
虫=気持ち悪い という価値観が正しいと思いこんだ人が、
虫=美しい という価値観の人間を否定したら?
昨今は様々なものに多様性なんて言葉が使われている。 私が思う多様性は
「他者を否定しない」
「価値観を押し付けない」ことであり、
他者に判断をゆだねることだとも思っている。
「苦手」はあっていい。
「嫌い」もあっていい。
でも、それはあくまで「自分の価値観」であるべきだと思う。
「私は苦手だな」
「私は得意ではないんだ」
それだけでいい。
嫌いな物も苦手な物も、あっていい。
ただ、伝え方に注意が必要なだけ。
その後、男の子は芋虫のガチャを悲しそうに諦めて、帰っていった。
価値観の刷り込みが、他者を傷つける可能性があることを、きっと母親も教えてもらっていなかった。 刷り込まれて、生きてきたんだろう。
それが、まわりまわって、実の子供に悲しい顔をさせた。
親は気が付かない。 その子が、どう思ったかもわからない。
それでも、これを読んでくれた人が、少しでも、
他者に余白を与えてくれたら嬉しく思う。
私は、虫も爬虫類も、美しいと思う。 グロテスクな物だって、美を感じる。
(命を軽んじる行為を許容するわけではない)
映画や作品の中にあるグロテスクなものに、美が宿っているものも沢山ある。 表面だけを見るのではなくて、バックボーンや心理、背景を見ると世界は変わる。
他者になって、世界を見れば、自分の価値観が簡単に揺らいだりする。
いつか、悲しい顔をしたあの男の子が、自分らしい「好き」を自由に見つけられたら……
すこし世界は柔らかくなるかも知れない。