その日はやけに雲の多い夜だった。 月は分厚い灰色に埋もれ、アスファルトには外灯の灯だけが、ただゆらゆらと反射している。
僅かに、雨が降っていた。
しっとりとした水滴が、ぽつぽつと水たまりに波紋を広げてはじく。 外灯の光に、二人の足跡がピチャリと響いた。
二人、出会った公園を抜けると、塗装もまだらな道を歩く。 通りを行く車の音も、人の生活する音すら聞こえなくなったころ、その家はひっそりとそこにあった。
さびれた扉に亀裂の入ったガラス窓。 伸びきった木々は青よりも茶色くその家を覆っている。 チラシが濡れてかたまったポストには、掠れた名前がかろうじて見える。
【久留間】
そのポストを前に、はるとは微かにその肩を震わせた。 外灯もなにもない真夜中に、その顔を伺うことはできない。 ただ、少し、甘い香りがほのかに香っていた。
「いい?はると」
「うん。 りょうくんの言う通りに、する」
「ん、いい子だね。 じゃあ、行こうか」
堂々と、玄関から入る。 事前に聞いていた通り、鍵はかかっていなかった。 土足のまま、ゆっくりと廊下を進んで行く。 カビと淀んだ空気と軋む廊下。 それを抜けていけば、開かれたままのボロボロの襖が目に入った。
そっと、二人で覗き込む。 空いた酒瓶と潰れたビールの缶。 ビニール袋にはどこかのコンビニで買った弁当の箱が飛び出していた。 部屋にはカーテンもなく、雨戸は閉じられたまま。 つけっぱなしのテレビが、何かのドラマを流していた。
その、部屋の中央。 乱雑にひかれたままの布団の上に、男が一人、大きくいびきをかいて横たわっている。 何色ともわからない灰色のTシャツに、下着姿のまま。 片手には、数時間前に涼が渡した、酒瓶が握られていた。
涼は一人、そっと笑う。 疑いもせず、しっかりと飲んでくれたようだ。
ちらり、とはるとは涼を見上げた。 涼はそれに、そっと頭を撫でるだけで応える。 視線が絡んで、頷く。 甘い匂いが、少し強くなった。
はるとはそのまま男に近づく。 その腹の上にゆっくりとまたがるが、男は気にもせず夢の中にいた。 ドラマの男が、女を抱きしめた。 はるとの背が綺麗にしなる。
『好きだ』『私も』
なんてチープなセリフの合間に、男のうめき声が漏れる。 愛しい人の頬に手を添えて、キスをする。 赤が、四方に飛び散る。 もう、声はしない。 ただ、柔らかな肉と水を混ぜたような音だけが、その部屋を奏でている。 ドラマは丁度、エンディングロール。
はるとは、男であった何かの上にまたがったまま、ナイフを落とした。 両手についたそれを、テレビの光に照らして眺める。 右、左、手のひら、手首。 染まった両手を見ながら、彼は、はぁ…と息を吐いた。
熱の籠ったその吐息は、涼の脳を溶かし、侵していく。 じ、と見つめた。 全身を赤く染め、黒い髪に赤が混ざり、ねっとりと床に落ちていく。 はく、と息を吐いて、はるとはその腕を下から上に、舌を這わせた。 こくり、と喉が震える。 また、口に含んでは、ゴクリと飲みこんだ。
灰色の部屋に、真っ赤になったまま、恍惚とした顔で涼を見つめる。 緋色が、翔けて、花が咲いた。
アネモネは、美しかった。
気が付いた時には、その体を抱きしめて、口づけていた。 はく、と息をするその音すら飲みこんで、赤く染まった頭をかき抱いた。 はるとは、涼のその手に、そっと手を重ねる。 二人、同時に息を吐く。
「はると、はると……ね、最高だった」
「うん、おれも、ね、すごい……楽しかった」
ふふ、と笑う髪が、テレビの光にあてられてピンクに染まっていた。 涼はその髪をなでると、もう一度その唇に軽くキスを落とす。 鉄の味と、甘美な毒の味が、もう戻れないことを伝えているようだった。
外は雨が強まっていた。 傘もささず、二人は手を繋いだまま歩く。
薄手のコートの下で、赤と雨が混ざって流れていく。
外灯の無い道は足跡を消し、赤は排水口に飲みこまれていった。
「ね、名前、決めたよ」
「ほんと? どんな字?」
「緋色が、翔ける。 で、緋翔(はると)」
「ごめん、わかんなかった」
「いいよ、全部、俺が教えてあげるから」
うっそりと、二人で笑う。
雨は強く、びしょ濡れのままの二人に降り注ぐ。
足跡は消え、赤はもう見えない。
通りに車が止まった。
赤いランプが、二人の影を照らしていた。
緋翔が涼の手をぎゅっと握る。
その温度だけが、確かだった。