緋翔はスマホを取り出すと、ただ「おはよう」とだけ打ち込んで、返事も待たずにそっとテーブルに置いた。
薄暗い部屋に、淡い色のカーテンが僅かに揺れている。
窓の外は暗い。 雨は上がり、わずかに雲の上から光が透けて見えた。
ベランダに出て、路地を眺める。
ペトリコール。
す、と息を吸えば、体の奥に静かに沈んで肌に滲んでいった。
緋翔はそのまま、涼の姿を探した。
目の前には木々の並ぶ道。 少し離れたところには小さな公園があって、まわりは古い造りのアパートや一軒家が並んでいる。
張り巡らされた電線に切り取られた街並みに、見覚えのある頭を見つけると、緋翔は一人うっそりと笑った。
きっと、あの本屋に行ってきたのだろうと、緋翔は思う。
昨晩の涼からは、あの古びたホコリにまみれた匂いと、自分によくにた匂いがまとわりついていた。 雨に濡れて、多少落ちてはいたけれど。
それでも、涼だけの匂いではなかったから。
緋翔はそっとベランダから身を乗り出した。
手を振るでもなく、ただ、眺める。
平均よりも高めの伸長と、さらりとした髪、細身の体から伸びる長い足が、まるで無声映画のようにその道をゆったりと進む。
傘を持つその手が、視界にとまる。
昨日、体に触れて、中に埋もれて、描くように揺れたその手。
特別な夜にはそれは宙を舞って、まるで指揮者のように、緋翔を描く。
赤に塗れたドロドロになった体に愛おしそうに触れる、その指を思い出して。 緋翔は思わず喉をならした。
はく、と小さく息をはけば、少し寒い部屋にわずかに熱が灯る。
それを見透かしたかのように、ふと涼の頭が傾く。
電熱が走ったかのように、バチリと視線が合った。
何も言わず、ただ、見つめあう。
しばらくすると、涼がふわりとほほ笑んだ。 口元を緩めて、目尻が下がる。 その唇が小さく揺れて、“あか”とだけ。
音にはなっていない。
だというのに、その音が耳元に聞こえて、緋翔は息を飲んだ。
緋翔はそのまま、ベランダにうずくまる。
腹の内側から上がる熱に、体のどこもかしこもが震えていた。
口元は思うように動かない。
嫌でも、期待するように口角が上がっていく。
しばらくすれば、ガチャリと玄関から音がした。
「ただいま。 ふふ……すごい顔、してる」
ベランダにうずくまる緋翔の顔にそっと触れて、涼はうっとりと笑った。
外から帰ってきたばかりのその手は冷たく、緋翔の頬を心地よく冷やしていく。
「涼のせい。 わかって、言ったくせに」
む、と少し口を尖らせる。 幼さの残るその顔の奥に、赤がちらついていた。 可愛さと、危うい色気と、その両方を含んだその顔に、涼はそっと唇を落とす。
「今夜、欲しくない?」
なに、とは言わない。
それだけで、緋翔の目にドロリとした感情が滲んでいく。
視線を合わせて、その奥を全てくみ取るように見つめれば、緋翔はゆるりと目を細めた。 綺麗な三日月が、白い肌に浮かぶ。
「涼が、望むなら……」
それが、したい。
そう笑って、緋翔は涼の首に腕を回した。
ベランダに二人、重なるように立ち上がる。
裸足のままの緋翔をその腕に閉じ込めて、涼はその首元に顔をうずめた。
金木犀のような甘い香りと、ベリーの甘さに、鉄の香り。
そこに、涼の使う緑茶の香水が微かに香る。
かぱりと口を開いて、その首元に歯を当てた。
小さく身を揺らして、背中にまわったその手に力がこもった。
ふ、と吐かれた息が、熱い。
「ね、おなかすいた……」
「そうだね。 じゃあ、これはいらない?」
そ、と意地悪い顔で緋翔の口元に指を添える。
長く、骨の形のよくわかる涼の指が、緋翔の唇を横に滑って、とん、とその前歯に触れた。
少し力をこめて下に引くと、ゆっくりと緋翔の唇が開く。
そこに指先を忍ばせて、涼は微笑む。
「涼は、ずるい。 俺がそれを拒めないの、知ってるくせに」
「ふふ、そうだね。 じゃあ、朝ごはんは俺が用意するし、緋翔の好きな物を作るよ。 これで、どう?」
「ハムとトマトのブリトー。 あと、ミネストローネ。 ベリージャムの紅茶」
「はいはい、ミネストローネはインスタントでもいい?」
言えば、緋翔は「んー」と少し考えた後、コクリとうなずいた。 ニコ、と太陽のように笑って、そのまま涼の指をその口に含む。
ぐ、と歯に力をこめれば、指先からプツリと赤が溢れる。
ゆっくりと、味覚も触覚も使って、溢れた赤を味わって飲みんでいく。
子猫がそうするように。
喉の奥までを満たすように。
は、と息が漏れたと同時に、涼はその指を引き抜いた。
紅潮した頬が、うっとりとした瞳が、涼の顔を映す。
「ごちそうさま」
「おそまつさまでした」
二人顔を見合わせて、ふふ、と笑った。
外では、雲間に浮かんだ光が雨に濡れたアスファルトを鈍く光らせている。
通りを過ぎる車のクラクションが、曇り空に響いて消えていった。