喫茶店を出てから、ぼんやりと通りを歩いて、気が付けば、涼と出会った公園まで来ていた。
木々が生い茂り、人の視線の届かない、湿った地面の上に腰を下ろして、膝を抱える。 手に持っていたビニールの袋は、どこにどうやったか覚えていない。
ただただ、この気持ちを整理したくて、緋翔は着ていたフードをすっぽりと頭からかぶると、目を閉じた。
幸せ。 家族。 幸せの形。
父親がいて、母親がいて、その真ん中で笑う子供。
それは確かに、緋翔の潰された過去の世界にしっかりと色づいていた。
あの写真はすでに燃えてなくなっている。 手元にはないし、その記憶も、記録も、緋翔以外に知る人はいない。
真っ黒に、真っ白に塗りつぶされた記憶の奥底に、棘のように刺さったままのその記憶は、緋翔の中で痛いほどに眩しかった。
抜いてしまえばいいと、思うこともある。 それでも、それを抜いてしまったら、そこから光が溢れて、自分を飲みこんでしまうような気がして。
それをできないままに、棘は今も刺さっている。
何度か、ポケットに仕舞っていたスマホが鳴っていた。 短く、定期的に、ただ、確かめるように揺れる。
時折長くなるそれを、緋翔はついに消してしまった。
今は、この棘と向き合わなくてはならないと、そう思ったから。
緋翔はぎゅっと、自身の膝を抱きしめた。 そのまま、閉じたままの目に力をこめて、その棘に向き合うように息を止める。 ふ、と小さく息を吐いて、かつての記憶を吸い込んだ。
優しかった父は、仕事で忙しくしていた。 休みの日には昼くらいまで寝ていたように思う。 その腹に、勢いよく乗って声をかけるのが楽しみだった。
苦しいよ、おはよう、元気だなぁ、今日は何しようか。
そんな、優しいまなざしと、少し困ったように下がる眉毛が大好きだった。
母は、ひどく綺麗で可愛らしい人だった。
ふわりと花が咲くように笑う顔も、「はると」と呼ぶ声も、その全てに愛しさがこもっていたように思う。 大きな瞳と、目の下の黒子は、母譲りだと、父親によく言われていた。 怒る時も、ほめる時も、母は決まって、抱きしめてくれた。
その日も、何てことはない休日のはずだった。
いつもと、何が違っていたかなんてわからない。 家族三人そろって、少し騒がしい朝食をとって、身支度をして、昼には揃ってお出かけをした。
午後の7時少し前。 テレビに、好きなアニメのエンディングが流れて、ボクはソファに座って夕飯の匂いに思いを馳せていた。 肉と、トマトの香り。 きっと今日は、ミートソースだ。
父は隣で本を読み、母がテーブルにお皿を並べている。 その時だった。
玄関に、チャイムが鳴り響いた。
こんな時間に?と、両親は一瞬顔を見合わせ、母が玄関に向かうのを父が立ち上がって制した。 ボクは変わらず、そのままテレビから流れるコマーシャルを見ていた。
それからは、あまりよく覚えていない。
父が叫び、母がボクにかけより、抱きしめられた。 頭上からうめく声と、何か暖かな液体が皮膚の上を通る感覚。 どたどたと動く音。 何かが割れて、液体が飛び散る音がして、あたりがいきなり真っ赤になった。
あたり一面に、赤と黒が渦巻いて、だんだんと熱くなる身体に比例するように、呼吸は苦しくなった。
白くなっていく視界の隅で、やけに、ミートソースの香りだけが、甘かったように思う。
そうして気が付けば、病院のベッドの上だった。
後から聞けば、強盗、放火、ただの金銭目当てだと。 小さな声で呟く声で知った。 それから、唯一とでも言うように、誰かも知らないおじさんに渡された写真。 家族三人で、引っ越してきた初日に撮った、あの写真だった。
それから、ボクは人では無くなった。
引き取り手の叔父と言われる人はロクでもなかった。 仕事に行くこともなく、両親の遺産で過ごすだけの人。 当たり前のように学校に行くこともなく、ボクはただ叔父の言いなりだった。 酒、タバコ、女、それだけで生きていたソレは、いつしか金が尽きれば、女はボクに切り替わった。
その頃には、痛みも、記憶も、自分の輪郭さえも分からなくなっていた。 朝が来て、夜が来て、また朝が来る。 その繰り返し。
年齢なんてわからない。 季節が巡る事も、年が変わった事も、何一つ理解できなかった。 ただ、寒いか、暑いか、普通か。 雨が降っているか、それ以外か。 ただ、それだけで、それが全てだった。
緋翔はぐっと、喉を鳴らした。
幸せとは、何だろうか、と。 考える度に頭の奥が殴られたかのように痛む。
当たり前とは何だろうか。
幸せとは、家族であることなのか。
父親がいて、母親がいて、愛が溢れていることなのか。
では、今の自分はどうなのだろうか。
涼がいて、たまに作品を作って、同じタイミングで笑って。
料理をしたら一緒に食べてくれる。
言葉を教えてくれて、知らない事を沢山教えてくれた。
過去を塗り替えてくれた。
今の自分を、ありのまま受け止めてくれた。
今の自分は、間違いなく、幸せだ。
では、涼はどうなのか。
愛しそうに見つめて、当たり前のように抱きしめてくれる。
でも、幸せなのだろうか。
この幸せは、「ボクの独りよがり」なのではないか。
じわりと、暖かいものが袖に滲んだ。
それはとめどなく溢れて、グレーのパーカーにしみを作っていく。
グズ、と鼻が鳴って、呼吸ができない。
仕方なく口を開けば、止めていた嗚咽が小さく漏れた。
緋翔はそれをそのままに、声を殺すようにより一層自身を抱きしめる。
フードの隙間から、僅かに夜風が肌を撫でた。
湿った草木の匂い。
それにほのかに混ざる緑茶の香りに、緋翔は視線を上げる。
「帰ろう」
低く響くその声に、緋翔はただ、頷くしかなかった。