時間の概念は、人によって同じではない。
それは、人間だけではなく、生き物全てに言える事だと思う。
1年、365日(366日)、8760時間(8784時間)。
数字としてみたら、同じのように見える。
でも、それなら幼少期、思春期、青年期、中年期、壮年期、高齢期で、見た目の変化が緩やかなのはなぜだろうか?
幼い頃の私には、一日の長さが空の色や風の匂い、草の湿り気と絡み合い、まるで何百もの時間が一度に流れているかのようだった。
同じ365日でも、そこに詰め込まれる経験の密度が濃ければ、日々は永遠にも感じられた。 一分一秒を感じていた。
成年期になると、日々はすこしずつ薄まり、日常が繰り返すごとに時間は滑るように過ぎていく。 それでも覚える事、日常の変化、それらを確かに感じながら過ごしていた。
中年期はさらに速く、気づけば四季はまた巡り、同じ年号を記したカレンダーが淡々と壁に貼られているだけだ。 人との交流も似たようなものになり、脳を刺激する物事はそう多くない。 若いころに比べたら、処世術を学んで気苦労のいなし方が板についた。 脳への刺激は、自身が選んだものだけに限られる。
高齢期には、1年は幼い頃の半分にも満たない。
時間は目の前にあるのに、指先から零れ落ちる砂のように、感覚としては消えていく。 目まぐるしくめぐる景色に、幼少期の成長を早く感じる。
その間に身体は変わり、見た目もまた滑らかに変化していくのだろう。
だから、若くして苦労を重ねた者は、老いていくのも早いように思う。 一日一日を、長く感じながら生きているから。
老いは、人間の定めた時間の長さではなく、脳が感じる時間が、体に影響しているのではないか。
カレンダーはただの紙。 天体の運行はただの指標。
人間が、相互理解と利便性の為に作られたのが「時間」であり、それだけでしかない。
例えば、同じ日に巻いた種が、同じように育たないように。
ペットの年齢が、年数と年齢で違うように。
同じ年齢の人でも、見た目の年齢が違うように。
時の流れは誰の体にも平等に降り注ぐようでいて、実はそれぞれの心の中で異なる速度を持っている。
私達が生き、感じ、息をするその密度が、見た目を作り上げるように思う。