涼はきっと、気が付いている。
あの日、あの人から言われた言葉が、ずっと頭の中を回って巡って、涼の顔を見る度に自分の居場所を探すようになってしまった。
あれからどれくらい時間がたったのか、もうよく覚えていない。
髪を染めたいと、思う自分が、鏡に映るたびに、結局何もできずに朝を迎える。
洗面台の上にある棚には、あの日どこかに置いてきてしまったものと、同じ物が並んでいる。
少し高い位置にあるその箱を見上げる度に、何か分からない物から見張られているような、いたたまれない気持ちが押し寄せてきて、視線を逸らす。
落とした先に、自身の指先がうつる。
黒く塗られた爪の先。 すぐに引っ掻くからって、涼が塗ってくれたそれは、大分付け根に肌色が見えてきている。
左の薬指の付け根には、歯型の傷がうっすらと残っていた。 いつもなら、くっきりと、赤い跡を残して、指輪の様にあるそれが、今は白く、皮膚の色になりつつある。
そこに静かに歯を立てようとして、やめた。
シャワーを浴びて、髪を乾かして。
オレンジと黒とうっすらとピンクの髪。
ドライヤーの風に吹かれて、やけに何も移さない目元に揺れる。
ある程度乾かして、勝手に腕が下りた。
電源のはいったままのドライヤーは、足元に暖かな風を送って、裸足のつま先を乾かしている。
もう、いいか。
諦めなのか、恐怖なのか、わからなかった。
ただ、目の前の自分を見るのが辛かった。
鏡に映る自分が、緋翔なのかわからなくなって、息が詰まる。
ここにいていいのかわからなくなる。
居場所が、見えなくなる。
そうして、気が付けば、目の前に涼がいる。
「ただいま」
変わらない笑顔で、そう言って、ただ、確かめるように抱きしめてくる。
外の空気をまとった緑茶の香りが、世界を埋め尽くしていく。
そうしてやっと、心臓が動く音を感じた。
「おかえり」
ゆっくりと呼吸をして、そっとその細身の体に腕を回した。 瞼の先で、涼の心臓の音を聞く。
は、と息を吐いて、呼吸が深くなる。
「ねぇ、緋翔。 今日、お願いがあるんだ」
涼はそのまま、回した腕に力をこめた。 さっきよりも近くなって、耳がぴったりと涼の胸に触れた。 そういえば、と。 ふと、気が付く。
鉄の匂いが、しない。
「なぁに?」
どこか寂しいような、違和感のような、不思議な気持ちになりながら、声だけでそう尋ねる。 涼はその顎をそっとボクの頭の上に重ねて、少しだけ体重をかけた。
呼吸の度に、少しだけかかる息がくすぐったい。
少しだけ揺れた息だけが、涼が少し笑った事を教えてくれた。
涼は何も答えずに、少しだけ体をずらすと、そっとその手をボクの手に重ねた。
二人の二つの掌が重なって、指が絡み合う。
涼の右手の指が、柔らかく、少しだけひっかくように手の甲をすべって、あの場所に触れた。
ゆったりとそのまま持ち上げて、まるで誓いを立てるかのようにそこに唇を触れさせて、すぐに放した。
柔らかいその唇の感触だけが、小さく熱を残す。
「俺に、少しだけ、緋翔をちょうだい」
その言葉は、やけに鉄の匂いを滲ませて、目の前を赤く染めた。
見上げた先に、涼の深い色の両目があって、視線が吸い込まれる。
切れ長の形に、少し小さい黒目の奥。
その両目に、自分の顔が映る。
それはやけに、頬を赤くして、期待に満ちた顔をしていた。
「っ…、は、ぁ……」
声だけが漏れて、絡まった指に力をこめた。
立っていられないような、眩暈に似た感情が背を走る。
ゾクリとした感覚と同時に、鼻の奥に鉄の匂いが触れた。
涼の骨ばった、男らしい手が、薬指を掴んで、そっと持ち上げる。
あ、と開かれた口の中に、薬指は飲みこまれた。
軽く歯を当てて、それでも力を入れない。
ずっと、その眼が、俺の返事を待っている。
返事の代わりに、その指を少し、折る。 撫でるように熱く湿ったその上を滑らせれば、涼のその目が脳を射抜いた。
プツリ。
脳の奥で響いた音に、体の力が抜けていく。
吸い取られるように、一つも逃さないように、薬指は飲まれて、ゆっくりと、はなれた。
濡れた指先が、急に冷えていく。
それでも、その付け根だけはやけに熱く、ジクジクと脈打つようだった。
涼はその喉を震わせた。 コクリと、体の奥にそれが流れていく。
そのまま、薄く開かれたままの俺の唇に触れると、舌が絡まった。
粘膜の奥に、鉄の味が巡る。
視界はとうに染まって、ただただ、幸せな気持ちだけが世界を埋めていく。
「緋翔」
涼がそう呼ぶ声に、俺は目を開いた。
涼が笑って、それが、全てだと思った。
「涼、ね、俺……」
「うん。 髪も、爪も、俺が染めていい?」
その言葉だけで、全てが救われたような気がした。
涼がいて、【緋翔】がいる。
俺がいて、涼がいる。
どちらが欠けても、きっと、この世界は壊れてしまう。
家族じゃない。
恋人とも、少し違う。
もっと、深い。
無いと生きていけないような。
一つの身体そのものなんて、そんなものでもない。
ふと、昔見た絵を思い出した。
すがる者と、光を与える者。
それは、どちらが欠けても成立しない。
神が居なければ、すがる者は存在しない。
すがる者が居なければ、神は成り立たない。
「涼」
声にだす。
触れて、抱きしめる。
その絵のタイトルは、思い出せなかった。
それでもわかる。
これは、唯一無二の、命の形。
俺がすがって、涼が与えて。
涼がすがって、俺が与える。
飲みこんでしまえば、それはやけに簡単に落ち着いた。
もう、ベラドンナの匂いはしない。
あるのは、ただ、甘い鉄の匂い。
それだけで、いいと、思えた。