道中、緋翔の様子はどこか少し、おかしかった。
お気に入りの音楽を口ずさんでいたと思ったら、ふと黙って、窓の外を眺める。 それからしばらく音楽と走行音だけの空間が続いて、また、思い出したように曲の途中から歌いだす。 しばらく嬉しそうに歌って、涼に話かけて。
そして、また、その目を細めて、外を黙って、眺めていた。
その瞳の奥には、通り過ぎて行く木々の景色に、何か別の色を重ねているようで、涼は車を止める度に、窓に映った緋翔の顔を眺めた。 答えは、見えない。
過ぎ去る景色に隠れるように、また、緋翔は笑って、言われてもいないのに、その手に大事そうに抱えたグリーンのタンブラーを、涼に差し出した。
受け取りながらその目を見つめてみても、それはすぐに逸らされて、少しおかしなタイミングで歌いだす緋翔に、涼は何も言わず、ただ、コーヒーを飲みこんだ。
まだ暖かい苦みだけが、すとん、と腹に落ちていく。
上っていく太陽の光が車内を照らし、その横顔に、小さく影を落としていた。
目的の海岸付近の駐車場は、事前に調べた通り、車は一台も止まっていなかった。 出来るだけ海に近い、真ん中あたりに車を止めると、涼はシートベルトを外しながら、緋翔を見た。
フロントガラスを通った暖かな光が、その白い肌を撫でていく。 じっと、ただ何も言わず、何も動かさず、緋翔は、まだ見えていない、海を眺めている。
少し長めのカーディガンから覗いた指先だけが、ずっと、涼のタンブラーの縁を撫でていた。 何かを確かめるように、何かを、隠すように。
その指先が何度か円をなぞった頃、涼は何も言わずに、緋翔のその指に触れた。
絡ませるでもなく。 ただ、そっとその指に寄り添うように、触れる。
ピクリと揺れた指が離れて、緋翔が涼を振り返った。 涼はただ、「ついたよ」とだけこぼして、タンブラーをその手から取り外すと、そっと真ん中のドリンクホルダーに置く。
二つあるうちの、緋翔側。
それがどこか、帰りもよろしく、と、言われているようで。 緋翔は小さく笑うと、外へと飛び出した。
海には、誰もいなかった。
高く上った太陽が、波間に反射してキラキラと揺れる。
青と、紺と、白と、灰。
寄せては返す波の隙間を縫うように、小さな泡が割れて、はじけた音が風に寄り添っているようだった。
ザ、ザー…
砂の上を滑っていく波はカーテンのように揺れている。
それは緋翔の足元まで届いて、そして、少しだけ触れては、また戻っていった。
先程まで走っていたとは思えない程、緋翔はそこで、ただ立ち尽くしていた。
涼はその少し後ろで、緋翔の横顔を眺める。
ピンクの髪が風に遊んで、ふわふわと、柔らかな頬を撫でた。
風が触れる度に少しだけ瞼が揺れて、それでもその大きな瞳は、瞬きを忘れたように、前を見つめている。
時折、唇が小さく開いて。
少しだけ吸って、飲んで、また、閉じた。
何かを、言いたそうにしながらも、緋翔は、まだ何も言わない。
昇り切った太陽は傾き、青は紫に、そして白が赤く染まっていく。
「緋翔」
何も言わないのか、言えないのか。 それは涼にも、わからなかった。
ただそれでも、離れるつもりはないと。
その気持ちだけは伝わって欲しいと。
そう思って、涼は、僅かに震えるその指先を、その手に絡めた。
骨ばった指が、柔らかなその指に絡まり、きゅっと力がこもる。
緋翔の黒く染められた指先が、涼の手を少し彷徨って、同じように力がこもった。
柔らかく握られた掌に、赤く染められた生ぬるい潮風が、通り過ぎて行く。
「ボク、一度だけ、海に来た事があるんだ。 まだ、人間だった頃」
緋翔は遠くで広がる波間の奥を、確かめるように話し続けた。
「お父さんと、お母さんと、ボクの三人で。 夏休みの、初めての、海は、すごくキラキラしていて、波が柔らかくて、気持ちよくて、家族に囲まれて……」
―― 幸せだった。
そこまで言うと、緋翔はそっと、目を閉じた。
震える指先を、涼の爪がゆっくりと撫でる。
それは肌を伝って、皮膚に染み込んで、心臓に触れた。
音にならないのに、許されたような気がして、緋翔は、涼に向き直る。
空に染められたピンク色の髪が、涼の視界に鮮やかに踊って、甘い緋翔の香りが、その鼻をくすぐった。
「ごめんなさい。 俺、ね、涼を、普通の幸せに、渡せないや」
ふふ、と笑ったその顔には、先程まで話していた“はると”の面影はない。
幼さの残るその顔に、夕日が重なる。
それは緋翔の髪を赤く染め、その瞳の奥に、確かな鉄の匂いを滲ませた。
緋翔は繋がれた手をそっと持ち上げると、涼の手の甲にキスを落とす。
そしてそれを大事そうに胸に抱えて、ふわりとほほ笑んだ。
「だから、涼も、俺に普通の幸せを、与えないでね」
その音は涼の瞳に確かな熱を宿して、深く沈んで行った。
涼は小さく「うん」とだけこぼす。
そっと引き寄せて抱きしめれば、小さな体はぴったりと、涼の胸に収まった。
緋翔の耳に、涼の心音が届く。
それはいつもよりも僅かに早く、それでいて、穏やかだった。
遠くを何羽かの鳥が羽ばたいて、波の音が二人を包む。
顔を見合わせて、二人だけで笑った。
赤く染められたカーテンが、二人の足を、引き寄せるように撫でて、
そして、静かに消えて行く。
その消えた先には、夕日に照らされた長く黒い影が、
二人の世界に寄り添うように、鉄の匂いを抱えていた。