物語の額縁 静脈に咲く花

ルピナスの掌

 緋翔が涼に初めて髪の毛を染めてもらってから、数ヶ月が過ぎた。 あれから事件は発覚したニュースもなければ、これといった騒ぎにもなってもいなかった。

 滞り続けている家賃に、大家がしびれを切らすタイミングが、発見のその時だと考えていたが、どうやら半ば、諦めていたのだろう。

 時折あの場所を見る事があったが、変わらずそこに、あの家は落ちていた。

 あれからというもの、緋翔は常に赤に反応を示すようになった。

 通りの洋服。 スニーカー。 店の看板。

 食料の買い出しの度に彼は、真っ赤に売れたトマトを嬉しそうに両手で抱えて、カゴにどさりと入れる。 おかげで二人の食卓のメニューでは、ミネストローネが定番になっていた。

 その日も二人はいつものスーパーへ買い出しに向かっていた。

 一年の終わりも間近に迫った季節。

 歩く革靴の裏からは、アスファルトのひんやりとした冷たさが滲んでくる。

 晴れた空のお陰で日の当たる道だけが確かに暖かく、二人は自然と、建物から離れる様に歩いていた。

 それでも風が僅かに吹けば、氷のような風が肌を刺して、緋翔はぐるりと大きく巻いたマフラーの隙間から、小さく「さむ」と呟いた。

 涼はその様子にうっすらとほほ笑み、そっと手を差し出す。

 通りに人はそれなりに居たが、涼は気にしなかった。

 どうせ通り過ぎるだけの存在に、動かされる感情など持ち合わせていない。

「うわ、涼のほうが冷たい」

 小さな掌は一瞬触れた涼の手から逃れた。 涼からすれば、ポケットに入れたままの自分の手の方が暖かいと考えていたのだが、僅かに触れた緋翔の指先は、確かに涼の手よりも暖かかった。

 子供の方が体温が高い、なんて言葉が脳裏をよぎったが、それには心で首を振った。

 なんせ、実のところ、緋翔の方が二つも年上だったのだから。

 結局は体質、と結論づけて、涼はその手をもう一度自分のポケットへと仕舞った。

「ふふ、ごめん。 あったかいかな?と思ったんだけど……」

 その言葉に、緋翔は大きく目を開いて、首を傾げた。

 じ、と立ち止まり涼の目を見つめる。

 目を見て、その奥を見る様に揺れて、それから、ふわりと笑った。

「ありがと! じゃあ、俺があっためたら、同じになれるよね」

 そう言うと、緋翔は涼のポケットにその手を入れて、掌を重ねた。

 温める様になんどか小さく力をこめて、指を柔らかく擦る。

 触れる度に、僅かに緋翔の熱が涼に移り、笑った二人の間に、陽射しが注ぐ。

「ん、あったかい。 緋翔の手は、あったかいね」

 ポケットの中で、涼は自身よりも小さく薄い、柔らかなその手を、ゆっくりと撫でた。 重なっていただけの指をその間に忍ばせて、小さく、指の股を爪で引っ掻く。 意思を持って、意識させるように撫で続ければ、緋翔はその頬を赤く染めながら、ちらりと視線を上に向けた。

「、涼の手は……、なんか、ぞわぞわする」

「ふはっ。 うん、嫌い?」

 意地悪くそう呟けば、緋翔は涼の視線の下で、ぶんぶんと頭を横に振った。 その度に、柔らかなピンクの髪がふわふわと舞って、ピオニーの香りが涼の鼻を撫でる。

 あれからまだ、赤を与えていないというのに、僅かに鉄の匂いが混ざっているような気がして、涼は喉を小さく鳴らした。

「ううん、好き。 だけど、ぞわぞわするのは、なんか、落ち着かないだけ」

 あの日の夜。 はるとが、緋翔になった、その夜。

 横たわる男の上で踊る緋翔の唇をたまらずに奪ったその、夜。

 赤と黒に塗れたまま、涼はその身体をむさぼった。

 部屋に流れるテレビの音も、外を落ちる雨の音も、床に広がるゴミも、何もかもが遠くの世界のようだった。

 

 細く肉の無い身体は、彼かけたアネモネの茎を思わせ、すがるように絡む腕は、撫でた葉のザラつきのように涼の欲望を逆撫でた。 当たり前のように受け入れる身体は、涼の嫉妬心を揺らし、同時に、目の前で完成されていくアネモネに、欠けていた何かが満たされていく。

 

 “愛”では無かった。

 そんな簡単な言葉で言い表せるような、行為では無かった。

 優しく、心を満たすような、生ぬるい湯船のようなものではなかった。

 もっと深く、重く、皮膚の内側すらも抉る様な。

 互いに喰らいあうような、夜だった。

 その夜の匂いは、今も緋翔の手に残っている。

 涼は隣で俯く緋翔の顔を眺めた。

 あの日の夜を思わせる様に、爪を食い込ませて、緋翔の親指をゆるやかに撫で上げた。

 フルリ、と小さく震わせ、緋翔はマフラー越しに熱く身近な息を吐く。

長いまつ毛が、冬の空気に小さく揺れていた。

 潤んだ瞳は、わざと視線を合わせないように真直ぐに地面へと注がれている。

 そのくせ、意識はずっと、ポケットの中だ。

「帰ったら、一緒にお風呂につかろうか」

 涼がそう聞けば、緋翔は黙って、息を飲みこんだ。

 通りにはポインセチアの花が花壇を彩り、その横顔に赤を添えている。

 スニーカーも、洋服も、看板にも、緋翔はその赤に目を向けなかった。

 

 ただ静かに、その手に赤を滲ませていた。

悠生 朔也

こんにちは、綴り手の悠生 朔也(ゆうき さくや)と申します。 日々の中でふと零れ落ちた感情や、 言葉になりきらなかった風景を、ひとつひとつ、そっとすくい上げています。 この場所では、そんな断片たちを形にして作られた物語たちを飾っています。 完成や正解ではなく、ただ「そこに在る」。 その静かな揺らぎを、誰かと分かち合えたら嬉しいです。

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