涼が大学二年の春頃の事、緋翔が夜中に居なくなる事が増えた。
一緒に夕飯を食べ、同じベッドに入って、一時間ほどたつと、緋翔は涼の顔をゆっくりとみて、静かに、その気配を消すようにして部屋を出ていく。
そして数時間もすると静かに帰宅し、涼の隣で寝息をたてて、翌朝には何も変わらない顔で、「おはよう」と告げる。
涼はそれに、冷めた視線のままで「おはよう」と答えていた。
緋翔が夜中に何をしに出ているのか。 それは涼には明白だった。
しっかりと洗い流してはいるようだが、それでもその体には、甘い“鉄の香り”をまとわせていたから。
僅かに濡れたピンクの髪が、寝返りをうつ度に、それは涼の心に滲んでいく。 緋翔の金木犀の香りと鉄の匂いが混ざった、官能的なその香りが、涼の脳をゆっくりと支配して、鉛の様な重さが胃の奥へと落ちていく。
嫉妬。 裏切り。 絶望。
どの感情を並べてみても、どこか違う。
涼はそれに名前を付けられないままに、緋翔の行動を、ただ観察していた。
それはどこか、完成前の作品を見つめる、芸術家のような視線で。
その日の夜も、緋翔はこっそりとベッドを抜け出し、静かに外へと出かけていった。
―― これで、5回目か。
涼はゆっくりと体を起こすと、サイドチェストに置いてある自身のスマホに手を伸ばした。 充電器のコードが揺れて、涼の横顔に触れたが、それすら気にせずに、涼は画面を見つめる。
指は迷いなく一つのアプリをタップした。 それはすぐさま地図を表示させると、移動する一つの円を見せる。 円はゆっくりとマンションを離れていき、数十分ほどで、ある地点で止まった。
そこは先月潰れたばかりの、小さな飲食店だった。
その円はそこに小一時間ほど留まり、やがてまたゆっくりと、マンションへと向かって動き出した。 行きよりも、僅かに遅くなったその動きに、視線をゆっくりと細める。
画面の先に動く緋翔の顔が、緩やかに一人で笑うのを想像して、涼はその唇を静かに引き締めた。
そのままスマホを元に戻し、そっと、布団の中へと沈む。 やけに冷たくなった隣に腕を伸ばし、指先をシーツに滑らせた。 それは肌を撫でるようにゆっくりと下りて、また上る。 緋翔の好きな場所をなぞるように。
それでも、真っ白なシーツは指先を冷やし、涼の胸を歪に凍らせた。
涼は一人、甘く息を漏らす。
自分の知らないところで咲く花に、そろそろハサミを入れる頃合いかもしれない。
翌日。 涼は大学の帰りに、そのまま先の飲食店へと足を向けた。
店への道は夕方でも人が少なく、どこか忘れ去られたかのような静けさを漂わせていた。 霧雨に塗れたアスファルトには、どこかからこぼれた油の膜が鈍い光を湛えている。 一台の車が、その光を僅かに引き延ばして、通り過ぎて行った。
涼はそれを避ける事もなく、真直ぐに道を進む。
しばらくして、シャッターの下りた建物が目の前に現れた。 そこには濡れてシワシワになった紙がかろうじて貼りついている。 長年の愛顧への感謝と謝罪を乗せた文字が、かすれてところどころ読めなくなっていた。
傾いた日のが、赤くそれを染めている。
涼はぐるりとその周りを見回すと、僅かに開かれた道にその身を滑らせた。 人が一人通るには細いその隙間を過ぎると、かすかに金木犀の香りが鼻を過ぎる。 それが、確かな証拠として、涼の胸に一つ影を落とした。
それを無表情のまま飲みこんで、涼は先へと進んだ。 僅かに呼吸が浅くなるのも無視をして。
店の裏口には古びた木製の扉があった。 そこには南京錠が、意味もなく引っかかっていた。 涼はそれを手袋をはめた手でゆっくりと外し、そこに落とす。
ジャラ、と重たい鉄が声を上げたが、それを気にもせずに、涼は軋むドアを開けて店内に入った。
瞬間、鉄の匂いが、涼の肌を柔らかく撫でていった。
それは誘うように揺れて、涼の胸を掴む。
それに「は」と息をこぼして、涼は厨房へと足を進めた。
薄暗い空間にはホコリが舞い、あちこちに調理道具が置かれている。 そのどれもがどこかへこんだり汚れたりしているのに、きちんと整頓されていた。 それらはまるで並んだ死体のように居座り、うっそりとした視線で涼の背を見つめている。 それがどこか、品定めしているかのように見えて、涼はふ、と小さく鼻で笑うと、店の奥へと進んだ。
放置されたカウンターとレジ。
片づけられたテーブル。
ひっくり返されたイス。
その、奥。
涼はそれを見て、ぐっと、唇を噛みしめた。
赤いカーペットが、黒く染まっている。
あちこちに飛び散る茶色。
何かであった、肉片。
雑然と、ソレは、あった。
「これは……」
涼はそこで、長く息を吐いた。
そしてくるりと踵をかえすと、元あったように、南京錠をかけて、店をあとにした。
マンションへと続く道の途中で、スマホが鳴る。
そこにはいつものように、緋翔からのメッセージが入っていた。
【今日の夕飯、どっちがいい?】
【ミートソースか、オムライス】
涼はそれに、既読だけでこたえて、スマホをそっと閉じた。
日はとうに落ちて、空はすでに紺色になっている。
涼はその空を見上げて、うっそりと、笑った。
―― 今日は、ミートソースにしよう。
それを二人で食べたら、一緒に、あの場所へ行こう。
そして教えてあげなければ。
その花が綺麗に咲く、その方法を。
未だに降りやまない霧雨が、涼のコートを濡らして、ゆっくりとその身体を冷やしていく。
人のいない道を進む涼の足音がアスファルトに飲まれて、外灯に照らされた影だけが、しっかりと黒く残っていた。
鈍色の油の光が、赤黒くその陰に重なる。
それは確かに、血のように赤かった。