五月の連休の中日は、穏やかな陽射しで溢れていた。
澄んだ青い空には、筆を横に引いたような薄い雲が、太陽の光を浴びて真っ白に伸びている。 遠くに見える大きなビルの窓ガラスがキラキラと輝き、人々で溢れる街の上を彩っていた。 その中を、ツバメが一羽、颯爽と通り過ぎて行く。
緋翔は、ベランダで干し終えた洗濯物のカゴを持ちながら、それをぼんやりと目で追った。 ツバメは行き交う人の間をゆるやかなカーブを描きながらくぐり抜け、商店街へと続く道へと消えていく。 どこか浮足立った世界で、ツバメだけが変わらない時間を過ごしているように見えて、緋翔は小さく笑みを零した。
「緋翔、終わった?」
振り向くと、部屋へと続く窓から、涼が顔だけ覗かせていた。 緋翔はその声に、持っていた洗濯カゴをくるりとひっくり返して頭の上に持ち上げると、ニカリと笑顔を浮かべる。 笑った緋翔の顔を、斜めに切り取るように影が落ちた。
陽射しの当たったままの左の眼と、影の落ちた右の眼。 その両方が、別々の光を湛えているようで、涼はうっそりと、笑みを浮かべた。
「終わったなら、どこかでかけようか?」
そう言いながら、涼は緋翔の持っていた洗濯カゴの片方の持ち手だけを持つと、ゆっくりと引っ張った。 浴室までのフローリングの上を、涼の少し後ろから、緋翔の裸足の足音が続く。 それは離れる事は無く、寄り添っていて。 涼の心を、そっと温めるようだった。
「ん~……。 でも、人多いよね?」
「そうだね。 恐らく、どこに行っても、人ばかりだろうな」
「それは、ちょっとなぁ~……」
浴室にカゴを下ろすと、緋翔はその腕を胸の前で組み、うんうんと頭を傾げた。 その度に、しわの寄った眉間の上を、柔らかなピンクの髪がふわふわと揺れる。 涼は誘われるようにその髪を優しく撫でると、現れた額にそっと唇を落とした。
緋翔はそれを受け止めて。 静かな浴室に、緋翔のくふくふと笑う声が小さくこぼれた。 穏やかな、いつもの日常。
「じゃあ、今日は映画でも観ようか。 適当に、配信してるやつ」
「あ、いいね! 適当に評価高いやつとか、ランダムに選ぶのも面白そう!」
「じゃあ、俺はコーヒー用意するから。 緋翔は、適当に映画選んでおいてくれる?」
そうして、二人でソファに並んで座って、何度目かのコーヒーを飲み終えた頃。
先程までは喜々として映画の感想を述べていた緋翔の顔が、やけに静かに画面の奥を眺めていた。 テレビにはすでにスタッフの名前が映されていて、劇中で一番使われていた音楽が、壮大な雰囲気を伴って流れている。
緋翔はその文字を、追うでもなく。 音楽に身をゆだねてもいなかった。
涼はその様子を不思議に思いながら、先程の映画の内容を思い浮かべた。
それは、数年前の作品で、かなり評価の高いものだった。 見た目も性格も全く違う二人の男が出会い、そして、人生の終わりに向けて、夢を一つずつ叶えていく、よくある感動ストーリーだった。
出来なかった事、やり残した事。 そんな誰しもにありそうな事を、死というタイムリミットまでに叶えていく。 そして最後には、当たり前の終わり。 人々が想像する、わかっていても、辛いと思えるような、死というフィナーレが描かれる。
視聴者に、彼らと同じような体験をさせ、感情移入させて、そして、永遠の別れを見せる事で、“人生の重さ”を描いたような、そんな作品だった。
正直、感情の何かが揺さぶられることは無かった。 と、涼はその作品に、心の内で“よくある感動させたい映画”のラベルを貼り、大きく感想を抱かなかったのだが。
―― 緋翔は、違ったのだろうか?
涼は、なおも画面をぼんやりと眺めている緋翔の横顔を、そっと見つめた。 大きな目の奥は、まだ何かを探すように、真直ぐにテレビに向いている。 画面の中で、配給元の文字が大きく表示されて、画面が切り替わった時。 ようやく、緋翔は、その目を画面から放すと、ゆっくりと瞬きをした。
「……。 ね、涼……は」
緋翔は、組んだ自身の両手に視線を落としたまま、呟いた。
「涼は、さ。 夢、って……あるの?」
その声は、確かめる様にも、探るようにも聞こえた。 不安そうに、それでいて、どこか悪い事をしてしまった、子供のような声だった。 涼は、“緋翔が、どんな答えを求めているのか”その声からは、判断出来なかった。
「夢、ね。 そうだな……」
涼は一度深く息を吐くと、視線を天井へと向けた。 真っ白な天井とライトが眩しくて、静かに目を閉じる。
そうして瞼の裏に浮かんでいく風景を、涼は一つ一つ確かめる様に、言葉へと落としていった。
大学を卒業したら、司書として働いて。
今までと同じように過ごして。
いつかこのマンションからも引っ越しをしないとね。
そしたら、二人でカフェを経営するのもいいかもしれない。
緋翔は料理も上手だし、何より、愛想がいいから。 接客、向いてるよ。
年を重ねて、体力もなくなってきて。
そうしたら、静かな場所で、二人で過ごすのもいいね。
「それで、最期まで、二人でいられればいいかな」
言い終えると、涼はゆるやかに緋翔の方へと視線を向けた。 それは柔らかな、五月の陽射しのように暖かく、それでいてどこか、逃げ場のないような光を湛えていて。
緋翔は、グ、と喉を鳴らした。
まるで、何か柔らかな物で首を絞められたかのように、息が上手く、飲みこめなかった。
涼はそれに静かに笑みを浮かべると、そっと、緋翔の手に自身の手を重ねる。 冷たい指先が、檻のように緋翔の手を包みこんだ。
当たり前の様に告げられた、涼の夢。 未来。
そのどれもが、緋翔にとって、得体の知れない何かのようで。
「……そっか」
ようやく零れたその声が、二人の手の上に落ちる。
コーヒーの香りが、静かな部屋に、広がった。