物語の額縁 静脈に咲く花

閉じられたアムネシア

 涼は一人、その寂れた商店街にある、錆びて歪んだ扉の前で、その取っ手をじっと眺めていた。

 足元には口を開いた南京錠が落ちている。 湿り気のある壁には緑色の苔が貼りつき、足元のコンクリートはひび割れて、所々雑草がその手を伸ばしていた。

 外にある商店街のまばらな明かりも、空からの月明りも殆ど届かないそこで、銀色の取っ手だけが、鈍い光を湛えている。

 涼は一度短く息を吐くと、目を閉じた。

 あの後、涼は真直ぐに自身のアパートへと向かった。 今なら止められる。 そんな、よくわからない正義感に似た何かが、彼の背中を押していた。

 涼は足早に道を進み、僅かに上がる息をそのままに、思考する。

 今までの自分が、何故それをしてこなかったのか。

 何故、あのままを受け入れていたのか。

 異常な事実に加担していたのか。

 それをいくら考えても分からなかった。

 それでも。

 今の自分なら、彼をまともな人間にすることが出来るのではないか。

 そんな、気がしていた。

 涼はアパートの扉を前に、一度息を整える。 昨日の、心配そうに、それでいて安心したようにこちらに向けた緋翔の顔が、思い浮かんだ。

 それを思い出すだけで、心臓の奥がチクリと痛む。

 そして同時に、その笑顔の奥で、赤が恍惚としたぬめりを落としたような瞳が揺れて。

 知れず、喉を重たい唾が過ぎていった。

 静かに鍵を刺し、そっと開けて見れば、部屋に明かりは点いていなかった。

 玄関の先のリビングのフローリングが、ささやかに月明りを反射している。 あけっぱなしの窓が、今朝涼が開いた大きさのままで、ゆるやかにカーテンを揺らしていた。

 テーブルの上には、緋翔の為に入れておいたコーヒーのカップ。 それは最後に見た状態と同じままで、ただ冷たくそこにあった。

 涼は僅かな不安に駆られるように玄関を進むと、寝室の扉を開ける。

 すぐに電気をつけて、涼は息を飲んだ。

 ベッドが、やけに綺麗に整えられていた。

 シーツも、毛布も、マクラも。 まるで最初からそこには何も無かったかのように、真直ぐに。

 涼はそのまま焦るようにベランダに出て、それから、浴室に走った。

 部屋中の扉を開けて、ベランダからあたりを見回した。

 心臓が早くなって、背中を冷たい汗が落ちていく。

 足の先が冷たくなっていく感覚に、涼は、崩れるようにベッドの横に膝をついた。

 シャリ、と音をたてたシーツが、触れた先から熱を奪っていくようで。

 それを強くつかむと、そのまま布団に顔をうずめた。

 僅かに、金木犀の香りが、鼻に触れる。

「……っ」

 涼は、名前を呼ぼうと口を開いて、そのまま閉じた。

 うまく吸えない酸素を求める様に、肺がきしむように震える。 それが、“何に対する不安”なのかわからないままに、涼はただ、呼吸を繰り返した。

 彼がどこに行ったのか。

 ナニをしに出かけたのか。

 帰ってくるのか。

 それとも……

「っぐ、うぇ……」

 その先を想像すると、理由もない嫌悪と絶望に似た何かがこみ上げてきて、涼は思わずその口を押えた。

 ぐ、と喉の奥が詰まる。

 身体のどこもかしこも、引き裂かれるような。

 そんな痛みが、全身を覆うような気がして。

 自身の肩を抱きしめる様に掴んでも、それは消えることは無かった。

 浅い呼吸を繰り返す度に、金木犀が頭の奥に咲いていく。

 肌に触れたマクラがやけに冷たくて。

 緋翔が泣いていたような、気がして。

 涼は奥歯を、噛みしめた。

 部屋の中で、カチ…と、時計の針が音をならす。

 見上げてみれば、壁の時計は、十時をとうに回っていた。

 涼はそこでようやく立ち上がると、ポケットの中からスマホを取り出した。

 はじめは、何故そんなアプリが入っているのか、わからなかった。

 【位置追跡アプリ】

 それがどうして入っていたのか、今ならわかる気がした。

 アプリを開けば、想像していた通り、追跡している人物は一人だった。 自分の名前で登録されているそれは、ある一点から、動いていない。

 履歴を見れば、そこに滞在して、一時間もたっていない様子だった。

 涼はそのまま、スマホの画面を睨むようにして、アパートを飛び出した。

 そこが何処で。

 今何が起こっているのか。

 想像する度に、頭の奥で、「止めよう」と意識する自分の口角が、僅かに弧を描いている事を、涼は気が付いていなかった。

 スマホを閉じて、涼はやっと、その銀色の取っ手に手をかけた。

 ギ、と軋む音をたてて、それは想像よりも軽く開いていく。

 ガラン、と開かれた、ホコリにまみれたキッチンが、冷たくこちらを見つめていた。 奥から揺れる様に風が吹き、涼の肌を柔らかく撫でる。

 それは赤く、重く、生臭い。

 涼はそれに眉をしかめながら、ゆっくりと奥へと足を進めた。

 キッチンを過ぎて、小さな仕切りを抜ける。

放置されたカウンターとレジ。

 片づけられたテーブル。

 ひっくり返されたイス。

 赤い、カーペットと、誰かの、息遣い。

「っ、あ……ぅ、ぐ」

 グチャリ。

 と音がする度に、その声が、空間に響いた。

 真っ暗で、明かりもない。

 なのに、そのピンク色の髪だけが涼の目には鮮明に映し出された。

 黒い半袖のTシャツから覗く白い腕が、緩やかに天にのびて、振り降ろされる。

 鈍い音と、僅かな水音。

 背中をしならせて、まるめて、まるで羽ばたくように動く肩甲骨が、美しかった。

 何かを求めるように揺れるピンクの髪が、彼の吐く息に合わせてなびいて。

 涼は思わず、は、と息を吐いた。

 同時に。

 言いしれない恐怖がその身体を支配した。

 そろり、と音をたてないように、後ろに下がる。

 気づかれないように、細心の注意を払いながら、涼はそのまま、その場を後にした。

 商店街を走り抜け、背中に迫る恐怖から逃げる様に、涼はアパートへと戻ると、鍵をかけた。 ガチャリ、と鳴ったその音にようやく肩を落として。

 そのまま、扉によりかかるように、崩れ落ちる。

 頭の奥で、ぐるぐると何かが回って。

 世界が歪んだような気がして、涼はその目をつぶった。

 異常だ、と。

 だから、自分が止めなければ、と。

 そうできると、思っていた自分を恥じた。

「っ、は、はは……そうだよな。 何で、気づかなかったんだ」

 危険なものを目の前にして。

 嫌悪するものを目の前にして。

 恐怖が差し迫っていたとして。

 まずやる事は何か。

 涼はその答えに、ふ、と息を吐きだした。

 閉じられた扉のむこう。

鼻の奥に、もう、金木犀の匂いは、しなかった。

悠生 朔也

こんにちは、綴り手の悠生 朔也(ゆうき さくや)と申します。 日々の中でふと零れ落ちた感情や、 言葉になりきらなかった風景を、ひとつひとつ、そっとすくい上げています。 この場所では、そんな断片たちを形にして作られた物語たちを飾っています。 完成や正解ではなく、ただ「そこに在る」。 その静かな揺らぎを、誰かと分かち合えたら嬉しいです。

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