講義中に、何度もノートの隅を赤で埋めた。
落ち着いた線で囲って、少しだけ歪ませる。 昨晩の夜の、赤をなぞるように。
横に切り裂いて、ほとばしる熱で円を描いて、流れる音楽のようにゆるやかに弧を描く。 ヴァイオリンが柔らかな音色を奏でる様に、ピアノが鍵盤をはじくように。 赤いペンを、コツ、と鳴らして、インタールード。
ふ、と自然と目を細めた。
教授の言葉は正確だった。
間違いもないし、構造も整っている。 が、それだけだ。
白い蛍光灯とその声の組み合わせには、当たり前のように毒もない。 退屈を通り越して、脳の奥の温度が抜けていく。
隣の席の女子が肩を寄せたけれど、反応はしない。
気を使って言葉を返せば、余計な糸が絡まる。 誰にでも優しくするくせに、誰にも関心がない。 自分でも矛盾しているとは思わない。
人に興味がないのは、仕様だ。
ペンは赤。 緋翔が選んだ、好きな色。
芯の重さも、インクの粘度も、彼の癖に合わせて選んだ。
以前、彼の書いたメモの字体がぐしゃっと崩れていたことがある。 読めなかった。 読めなかったが、理解できた。 文字より雄弁に、線が語っていたから。
ブ、と画面が震えた。 当たり前のように、緋翔から。
赤いタオルのスタンプ。
昨日、首を拭いたあれ。 天気がいいから、洗濯したのだろう。 白が赤。 汗と鉄の匂いに、甘い香りが混ざったタオル。
返信はしない。言葉は必要ない。
でも、画面を見た手の熱が、すこしだけ上がっていた。
視線の先に、そっと一輪の花を書き足した。 フィニッシュ。
昨日の香りが、わずかに香った気がした。
そ、とノートの花に指を添える。
線をぐるりと回って、過去に触れる。 思い出すのは、昨夜の緋翔の髪。 濡れて、赤く、熱く、指に絡む。 ぬるりと滑って、渇く。
指先から伝わった温度と、匂い。 くちなしみたいに甘いけど、あれは花じゃなくて、生だった。 どうしようもないほどの、渇望が満たされた、本当の君。
喉が、ゴクリとなった。
講義が終わって、俺はすぐさま席を立った。 赤をしまって、鞄を肩にかける。
背後で誰かが名前を呼んだ。 お辞儀だけして、さっさと教室を後にする。 どうせ、意味の無いことだ。 最低限の会話以外に、必要もない。
外に出たら、風が強くなっていた。
マンションへの道に、少し湿った紫陽花が並んでいた。 ピンクと緑。
風に揺れて、雨露がぽつりとこぼれた。
夕日をまとい、赤く落ちる。
そっとポケットからスマホを出して、短く文字を打ち込んだ。
「今日はピザでも食べない?」
少しだけ指が迷って、もう一行。
「赤いやつ。 トマト多めの」
送信。
画面を閉じる。
彼が返すかどうかは気にしない。 返ってこなくてもいい。
風に匂いが滲んでいる。 手の指に、赤の跡。
細く一直線にひかれた赤は、まだ暖かい。
そこにキスをすれば、皮膚の内側で緋翔が笑う。
午後は静かだった。
語らない。 誰にも混ざらない。 何も起こらない。
でも、紙の上では、赤が滲んでいる。
午後を彩るくちなしが、甘く肌を撫でていった。
その香りはやけに甘く、喉の奥を静かに焦がすようだった。