「やればできる」は、誰の為の言葉だろう。
私はずっと、「できない側」に居た。
これは、その場所から見た、世界の記録。
昔から、ずっと私は醜悪だ。
通り過ぎる人も、バスや電車や、お店や道路。
行き交う人の中で、私ほど醜悪な外見の人間はいないと、そう思う。
昔、浴衣を着て七夕に言った日の事。
「あんたデブだな」
と、言われた事がある。
その通りである。 その人の言葉に、嘘偽りは無く、真実だ。
あのおじいさんは、「犬を犬」と言ったに過ぎない。
それでも、傷がつかないわけではない。
理由は明確で、「私もそう思っているから」
真実が二重にのしかかった。
よく、簡単に「そんな人の言葉なんてきにするな」と言う人が居る。
その人は、優しさや思いやり、寄り添いの姿勢で伝えていると、それは理解ができる。
ただ、それは非常に、無責任で投げやりな、手放しの言葉にもなる。
「気にしているお前が、ダメなんだ」と。
普通になれない。
努力の仕方も、続け方も、わからない。
出来る人は簡単に言う。
「やればできる」
その言葉が、どれだけ無責任か、考えた事はあるのだろうか。
もちろん、鼓舞に使われているのだろうけれど
・出来ないお前がおかしい
・やらないだけのお前が悪い
・やりたくないだけで甘えてるんだろ?
・その気もないくせに
が、その言葉の奥に垣間見える。
だから、
用法容量と、誰に使うかは、
きちんと考えた方がいいと思う。
少なくとも、私は手放しでそんなことは言えない。
言うなら、
隣に立って、
同じ目線で、
その手を握って、
一緒に歩く覚悟で伝える。
置いて行かない。
先に行かせない。
止まったら、止まる。
座ったら、そっと手を差し出す。
私はつい最近まで、自分の性格や考え方が気に入っていた。
ネガティブになるのも、素直に感じられる心も、痛みも歪みも、美しいと思える世界観も、ストレートな物言いも、他者への考え方も、命への考えも、自分の誇れるものだと。
だが、私が「外見が大嫌い」と言った時、ある人は言った。
「外見は中身の延長線にある」と。
おそらく、彼の言いたい事はこうだ。
「中身が気に入っているなら、外見も気に入っていいんだ」と。
しかし、私の中では、別の結論に辿りついてしまう。
簡単な方程式だ。
外見=中身の延長線=中身
外見=醜悪
中身=醜悪
やっぱり自分は醜悪だ。 ダメだ。 どうしようもない人間だ。
これがずっと、ひたすら壊れたラジオのように頭を埋め尽くす。
しばらくして、やっと、なんとなく、目を開けられるようになった。
真っ暗にすると、安心する。
光は自分を映すから。
真っ暗にして、部屋の隅で、夜空を眺めるのがすき。
誰も、私の殻なんて見えない。
そうして、出来るだけ自分を見えないようにして、
翌日も何もないように過ごす。
この感情も、きっと今だけで、
時間と共に、かわって、また戻って、消える事はないけど、
引き出しにしまわれて、片づけられる。
私は、脳みそだけになりたいと、思った。
文章や物語は、脳みそだけでも、書けるはずだ。
微弱な電流が、この感情も感覚も支配しているのだから。
外見なんて、体なんて、なくなってしまえばいい。
実現は出来ない。
だから、私はこうして、自分の醜悪な手で、文字を打つ。
生まれ変わる事も出来ない。
だから、私は物語に、自分を投影する。