その日も穏やかな、赤い一日のはずだった。
涼は変わらず、何も面白味もない大学へと向かい、緋翔は家でその時間を適当に過ごす。 冬の寒さも朝方には落ち着いてきた季節。 窓辺には、これから開こうとする桜の蕾が時折風に揺られて空を彩っている。
たまたま、次の講義が休講となり、涼はなんてことなしに学外へと出た。 大学付近にあるカフェに一人、窓辺の一通りの見える場所に座る。 通りには、まだマフラーをする女性もいれば、すでに春物のシャツに身を包む男性も見えた。 午後になって数時間、まだ下校には早い時間帯。
白い紙製のカップに入れられた、暖かいコーヒーが、窓の外を少し曇らせた。
涼は、ポケットにしまっていたスマホを取り出すと、小さな丸いテーブルの上にそれを置いた。 特にこれといった知らせもなく、いつも通りの画面。
そっとその写真フォルダを開けば、そこには枯れたアネモネと、ピンクが並ぶ。
ふ、と人知れず口元に笑みを浮かべて、涼は外を見た。
乾いたアスファルトの通りには、小さな花壇が並んでいる。 街路樹も青く茂り、春の日差しと冬の風にその葉を揺らしていた。
もしかしたら、緋翔はこの気温で、昼寝をしているかもしれない。
心地よい風の通る、窓辺のソファ。 そこに読みかけの本と、飲みかけの紅茶。 蓋の開けっ放しにされたベリージャムが、風に甘さを運んでいる。
そこに、ピンクの頭の彼が、穏やかな表情で規則正しい寝息をたてていた。 時折、その額の髪を風が撫でる。
柔らかな頬のラインは、指先に心地よい。 並んだ黒子を撫でて、その瞳の上に唇を落としても、彼はきっと起きる事はないだろう。
涼はコーヒーを一口含むと、それをコクリと飲みほした。 じんわりと、喉と胃が熱を持つ。 画面の黒子を人撫でして、涼はそれをしまった。
帰ったら、何をしていたのか尋ねよう。 そう思い、また視線を外へと向けた。
「緋翔?」
通りの向い。 街路樹の隙間に、見覚えのあるジャケットと、黒のバケットハット。 そこからは僅かにピンクの髪が見え、どこをどう見ても、緋翔そのものだった。
涼はすぐさま、スマホを開くと、位置情報アプリを立ち上げた。 緋翔の居場所は、自分のすぐそこと同じ場所にある。 それが、こちらには向かわずに、通りの奥へと向かっていった。
涼はそのまま、じ…と同行を探る。 やがて緋翔のアイコンが、ある場所から動かなくなった。 場所は、ここからそう遠くはない本屋。 昔からあると言われている、所謂古本屋だった。
「(緋翔が、本…? 自分から?)」
昔よりは文字が読めるようになった緋翔ではあるが、まだ読めない漢字も多ければ、意味の知らない言葉も沢山ある。 普段は涼が渡した本を読み、たまに本棚の何冊かを、なんとなく読んでいる事はあった。
それでも、意味や内容を聞けば、大抵「よくわかんなかった」と返ってくる。
そんな彼が、何故本屋に向かっているのか。 涼には、これといった“自身を納得させる理由”が見つからなかった。
そのまま、じっと画面を見つめる。
十分、二十分、彼はそこから動かない。 ようやく動き出したのは、涼がコーヒーのお替りを二回した頃だった。
それはそのまま、同じ道を辿り、そして自宅へと向かっていく。
涼はそれを確認して、そっと見せを後にした。
その後の講義は、何を話していたのか曖昧だった。 ノートを見れば、普段しないような改行と文字が並び、ただの板書がそこに埋まっている。 それをさっさと仕舞い、涼は帰路へとつく。
スマホに、緋翔からのメッセージが届く。
【今日はミートソース】
【あと、トマトのサラダ】
【あと、コンソメスープ】
いつものような、夕飯メニューだけのラインに、涼はどこか胃が重くなる。
既読だけつけて、そのまま歩いていく。
いつもの道。 春の気温が下りて、冬の寒さが夜道に落ちる。
コートのエリをたて、鞄の中からマフラーを取り出す。
首元に巻いても、何故か心臓は、凍ったように冷たかった。